先日、今回の写真集のテーマが「生きることの質感」だと書いた。昨日はまた暗室に入り、プリントを作りながら再度、「生きることの質感」について考えた。
僕の写真は、”生きること”への興味から始まっている。とはいえ、生きること、あるいは人生など、それこそ人の数だけ存在する。”生命”の普遍は、”生き抜き遺伝子を伝えようとする”という生存に関わる部分だろうが、”人生”の普遍を見出すのは難しい。「自分らしくある」とか、「夢」とか「愛」とか「生き甲斐」とか、それらしいものはたくさん思い浮かぶけれど、それが時代や環境、境遇など、人生を取り巻く様々な要因と照らし合せてみると、簡単に普遍的な何かを見出すことはできないだろう。真摯に考えれば考えるほど、僕たちが普段、「人生の最も大切なこと」などと捉えているもののほとんどが脆く疑わしいものだと思う。
そう考えたとき、僕がいつも思うのは、それぞれの人生の表情だ。ひとつひとつの人生が異なる表情を持っていることはもちろん、ひとつの人生においても数え切れない表情がある。それらの表情は良し悪しや善悪で区別できるものではなく、ただただ、その人生に、その瞬間、その表情があると感じる。この表情をもっと明確に言い表す言葉が「質感」だと思う。
モノには質感が存在する。つるつるしている、ざらざらしている、かちっとしている、しっとりしている。重い感じ、軽い感じ、など様々な質感が存在する。そして、これらの質感には、優劣は存在しない。ただ、そのモノ固有の質感として存在しているだけだ。人生における質感もまた同じだと思う。良し悪しなどでは括れないのだ。
弁造さんの最晩年はなかなか難しい時間だったと思うが、それはそういう質感をまとった時間であり、弁造さんはその質感を味わいながら生きていたのだと感じる。
弁造さんは逝く少し前に言った。「これだけ年をとって、身体も動かん、何もできようになってどうしようもない。いいことなんてないさ。だからといって、死ぬわけにはいかんじゃろう」。
井上弁造というの人生の様々な質感が写真集のページを作っていく。