弁造さんのエスキース販売について

ひとつの思いがあって、弁造さんのエスキースを販売することにしました。

2012年の4月に弁造さんが亡くなり、僕は弁造さんのエスキースを僕が暮らす岩手に持ち帰りました。生前、弁造さんはその絵について、「わしが死んだら燃すなり好きなようにすりゃあいい」と軽く言い放っていました。それは「死んだら無になる」が信条の弁造さんにとっての本心だったと思います。実際、弁造さんは死後、自分が暮らした丸太小屋と納屋を解体するための費用を残していました。弁造さんは、自分の死とともに絵も無にかえそうと計画していたのです。僕もその当時はそれが弁造さんらしい判断だと感じていました。

 しかし、弁造さんが実際に亡くなってしまうと、僕は弁造さんのエスキース、手書きの手紙、メモといった弁造さんの存在を強く宿すものをかき集め、持ち帰ることにしました。『庭とエスキース』にも綴りましたが理由は、弁造さんの記憶を宿す物のすべてが無くってしまえば、弁造さんが存在したという事実さえも失われる気がしたからです。

 以来、僕はずっと弁造さんのエスキースとともに生きてきました。おかげで、僕は弁造さんが愛した絵の世界を常に感じながら生活することができました。それは、この胸の奥から弁造さんのあの甲高く人懐っこい声が聞こえてくるような、そんな日々でした。

 一方、心配もありました。それは僕が死んでしまったら、このエスキースたちはゴミになってしまうのだろうなという簡単に想像できる未来でした。すべてのもの、すべての存在が消えてなくなると考えれば、それはそれでいいのだろうという思いもないわけではありません。しかし、画家としては全くの無名で逝ってしまった弁造さんのエスキースが死後もこうして僕の手元に残り、しかもいくつもの幸運が重なって「弁造さん」という存在が多くの方々が愛されるようになった今であれば、さらなる幸運も夢見ることができるのではないかと思うようにもなりました。

 ずっと、「弁造さん」は僕の弁造さんでした。しかし、僕が不思議な縁で巡り合うことができた「弁造さんの生きることを見つめた日々」を写真や言葉で表現していく過程で、「弁造さん」は「みんなの弁造さん」になっていきました。この奇跡(僕はいまだにそう思います)を思うと、弁造さんが遺したエスキースも「みんなのエスキース」になることができるのではないか、そう考えるようになっていったのです。

 そして、たどり着いたのが、今回上梓する『BENZO ESQUISSES 1920-2012』を機に僕は弁造さんのエスキースを手放そうという決心でした。と同時に、誰かが弁造さんの記憶が宿るエスキースを大切に思い、暮らしのなかに迎え入れてくれたらと願いました。無名の画家が描いたエスキースの価値など、もしかしたら落書き同然なのかもしれません。しかし、弁造さんの生きることに共感する方々が、弁造さんのエスキースとともに新しい日々を歩んでいくという未来を想像すると、「他者と出会うこと」が秘められた不思議な力を僕は覚えます。

今、友人の木工作家に弁造さんが板に描いた油絵を収めるオリジナル・フレームの製作を依頼しています。弁造さんが描いた女性たちは、木の香りのする美しいフレームに飾られて、どのような人に出会うのでしょうか。エスキースの女性たちが新しい家で目を輝かせるその光景を僕が見ることはきっと叶わないでしょう。しかし、それを想像することで、僕は胸の内に存在している弁造さんに今日も語り掛けることができると思うのです。

※エスキースの販売については、これから巡回を予定しています各会場(東京、福井、つくば、福岡、静岡など)にて行います。第1回の展示の詳細は以下リンクよりご参照ください。

https://www.title-books.com/event/11330

 

弁造さんのエスキース販売について” への1件のフィードバック

  1. 「ひとつの思いがあって、弁造さんのエスキースを販売することにしました。」

    この一文を読んだ時、家に弁造さんのエスキースがある事を想像して、心が震え胸が高鳴りました。購入の可能性というよりも、弁造さんの記憶の欠片の一端に自分が関わることができる。そのつながりが持てる不思議。その時間を想像したのだと思います。そして同じように思う人は多数いるだろう、そう感じました。素晴らしい決心だと思いました。

    話は変わり自分ごとですが、「ものとかたり」という遺品整理の本を創りました。titleさんでも扱っていただいています。ただの自分の親の記録ですが、弁造さんが「みんなの弁造さん」になったように、本にする事で自分の親の記録ではなく「辰雄とイチ子」という人が生きた証を残したかったからです。名もない人の人生を残せるのは家族だけなので。
    けれども、奥山さんは赤の他人である弁造さんの人生を、写真と文章で残しました。そして弁造さん亡き後は、彼の遺したエスキースと共に生きて来られた。
    家族でも、恋人でもない他人を、どうしてここまで思えるのか?奥山さんへのいちばん興味のあるところです。二人の間に「カメラ」という装置があった事は、何か関係があるのでしょうか?
    20年以上続いた「他者を知りたい」という欲求は、もしかしたら血の繋がりよりも深い、特別な何かを生み出したのかもしれません。そして奥山さんをそこまで思わせた弁造さんという存在。二人は友情でも愛情でもない、簡単には名づけようのない関係で結ばれていました。「庭とエスキース」それこそ奇跡のような時間が綴られていました。弁造さんでもない、奥山さんでもない、二人の間に通うものにこそ、読者は魅力を感じるのではないでしょうか?他者との関わりへの希望、とも言えるものなのかもしれません。
    そして今回、その弁造さんのエスキースを手放す決心をされた。ある意味二度目の遺品整理だと思いますが、弁造さんが亡くなられて10年以上経つ今、手放そうとする決意には、はかりしれない葛藤があったのではないでしょうか?

    長くなりました。
    明日、titleさんに伺います。是非奥山さんに「ものとかたり」を読んでいただきたく受け取っていただけたら幸いです。お忙しいと思いますので、事前にコメントを書かせていただきました。

    では、写真展、楽しみにしています。

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です