辿り着けない場所#Benzo Esquisses 1920-2012

毎日、『Benzo Esquisses 1920-2020』の編集を続けている。弁造さんが描き、残したエスキースがテーマとなる写真集だ。紙面にはエスキースに加え、弁造さんが作り続けた庭の姿も収められる。これらの写真は弁造さんの生きることを伝える媒体として存在している。写真を撮ったのは僕だが、撮らされたに等しい。もちろん、弁造さんという存在にだ。

写真集のなかで僕が僕として表したものをあげるとしたら、それは言葉だろう。先日、原稿用紙にすると50枚程度の文章を書いた。内容としては先の制作日誌でも書いたことと重なるが、エスキースを撮ることになった理由にはじまり、撮影の過程と弁造さんという人間の回想などで、書き出しぐらいはなんとなくイメージしていたが、どのようにたどり着くかはわからないまま書き始めた。

弁造さんについての言葉は、僕の胸の底に厚い層をなして沈んでいる。書くことはそれに手を伸ばし、しげしげと仔細に眺める行為に似ている。じっくりと見定めた結果、これじゃないと拾い上げた言葉を放り投げて、さらに奥底へ手を伸ばすこともあるし、玩具箱をひっくり返すように躍起になって探すこともある。でも、おかしな話かもしれないけれど欲しい言葉があるわけではないし、答え合わせでもない。弁造さんについての思いを巡らせるなかでフォーカスが合わずにぼんやりとした部分をもう少しはっきり見たいと願いながら言葉を探す。結果、探しているうちにそれらしい言葉とコツンとぶつかって、そうか、そういうことだったのかと、腑に落ちたりする。

ただ、そうは言っても僕の胸の中にあるものなので、これまでに見たことがない真新しい言葉が出てくるわけでもない。ここまで、弁造さんのことを自分でも驚くぐらいの時間と量をもって書き続けてきた。ある意味、書き尽くした感もある。とは言え、書き尽くしたと考え尽くしたは違う。現に今も僕には考えても考えても答えの出ない問いに突きつけられている。それは僕が自身に突きつけたものでもあるのだが、書いても考えても一向に答えに辿り着かない。問いは僕が弁造さんを撮らせてもらおうと思った日に生まれたから、いい年なのだが今も口をつぐんだままだ。

カメラを通じて他者の人生に近づくことはできないか。まだ20代半ばだった僕はこのひとつの思いで弁造さんのもとに向かった。ここで言う「他者」とは言葉通り、自分ではない誰かのことで、僕は自分ではない遠い誰かの人生の生の部分に触れてみたかった。

弁造さんに受け入れてもらった僕は、井上弁造という一人の人生の営みを見つめるという作業を続けた。その間、自分にとって“他者”というものが何であるか、そして、他者に向かうとはどういうことかについて忘れることはなく、むしろ、それらの問いは時間とともに大きさを増した。また、弁造さんの死後、いなくなった弁造さんを前にして、同じように他者への問いを巡らせたが、弁造さんがいなくなったことで、問いは複雑化した。「他者」に「存在」が加わり、一筋縄ではいかない要素が増えたからだ。

自分ではない誰か。その誰かの存在と不在。そして、その二つの位相を持つ誰かとの関わり。あれこれ考えるのだが、焦点のポイントが少しでも異なってしまうと定めることは難しく、途方に暮れた。ときに霧の向こうに答えのようなものが見えることもあって、一陣の風でも吹けばたどり着けるのではと望みを託すこともあったが、そんなときに限って霧は深まるばかりで地団駄を踏むしかなかった。

だから弁造さんについて新たに書くとなると、今度こそ問いの答えに近づこうと胸の内にある言葉を隈なく探してきた。今回、写真集に寄せる文章を書き始めたときも、虎視眈々と言葉を連ねた。これまでずっと考えてきたんだ、深く潜ることができれば、いよいよ辿り着けるのではないか、という淡い期待が筆を進めさせた。

しかし、結果としてはやはりたどり着くことはできなかった。こうなるともはや宝探しに近い。俗に言う宝探しは、そのほとんどが結局見つからないまま終わる運命にある。だから、宝探しにはロマンがあるわけで、そう考えると、弁造さんを通じて考えてきた他者という問題も同じ類のものなのだろうか。問いの前で酔っている自分がいることには、とっくの昔に気づいている。

ただ、それでもやっぱり続けてしまう。僕は弁造さんを知ることで、ずっと考え、問い、問い直すことができた。終わることがない一人遊びだとすればそれまでだが、一人遊びを続けてきた結果、こうして今も問いを持ったまま生きている。思えば、弁造さんも問い続けた人だった。弁造さんの人生は思い通りにならないことが多かったけれど、だからこそ、そこで生きるために、より良い明日を作っていくために問い続けた。

印象的な記憶がある。あれは弁造さんが母と娘の像を描いていたときだった。このモチーフは弁造さんにとって特別だった。僕は1997年の春に弁造さんと出会ったのだが、そのときすでに丸太小屋の中に置かれたイーゼルには母と娘のエスキースがかかっていた。エスキースとはいえ、その時点ですでに油彩で描かれており、完成まであと一歩に思えた。でも、弁造さんはそのエスキースを結果的に塗りつぶしてしまう。それに気づき、どこにいったのかと聞く僕に対して、「わしゃ、そんな絵は知らん」の一点張りで、再び鉛筆で母と娘のエスキースを描き始めたのだった。このモチーフは最終的に弁造さんが逝く2年前に完成するのだが、弁造さんは結局、10年以上に渡って、母娘像をどう描くかという問いを持ち続けていた。この問いは弁造さんにとってはとても大きなもので、ときに絵筆を持ったまま、30分ほども下を向くこともあった。そんな弁造さんの姿を思い起こすと、ひとつの言葉が浮かぶ。それは、切実さだ。弁造さんが母と娘の絵に何を込めるのかを語ったことはなかったが、いつも絵の前で唸るほど悩み続けた。その姿を表現する言葉を僕は切実さのほかに知らない。そして、この自分に向けた刃物のような感覚が弁造さんを弁造さんに育んだのだと思う。

果たして、僕が携えている問いが弁造さんの切実さと同じ地平にあるものかどうかわからない。今では問いの周りを回ることを不思議な喜びと思うことも少なくないからだ。でも、だからだろうか。気がつけば僕の胸のなかで問いは、弁造さんと合せ鏡となって存在している。弁造さんを忘れない限り、きっと問いは僕の胸のうちで息を吸い続けるのだろう。

鏡の中で今日も弁造さんは笑ったり、眠ったり、木を植えたりして、「どうじゃ、さすがのあんたもようやくわしの気持ちがわかってきたか?」とからかう。僕はそんなことを考えながら、弁造さんが残したエスキースを撮った写真を並べ、一冊の本を編もうとしている。

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