つまらない葉書 #庭とエスキース

弁造さんの生きることを綴る。それは、弁造さんの記憶とともに、日々を占めていた暮らしについて書くことでもあった。もちろん、季節ごとに訪ねる僕が知っていたのは弁造さんの日々のわずか一部だ。連綿と続いていく弁造さんの暮らしのまさに途切れ途切れの断片でしかないだろう。その断片から全体を想像すること。それは、もしかしたらたくさんの誤解を生むのかもしれない。それでも他者を知るためには想像することでしか埋めることができない世界が存在しないだろうか。「庭とエスキース」はこの思いに貫かれている。

弁造さんが逝ってしまう5-6年前のことだったと思う。僕は少し焦りともどかしさを覚えていた。弁造さんを撮っていくということに対してだ。その時点で弁造さんとの付き合いは10年近くになっていて、季節ごとに訪ねるという撮影行為もある種のルーティーンとなっていた。弁造さんの庭に巡ってくる新しい季節はいつも新鮮だったが、それは繰り返しであり、季節の移ろいのなかでの弁造さんの暮らしもまた繰り返された。もちろん、それが当然であることはわかっていた。80歳半ばとなり一人で自給自足生活を送る弁造さんの生活は完成されていて、変わっていくものではないもの。僕ができることはその変わらないものを見つめ続けること。その深さが大切なことだと。長い撮影行為のなかで幾度となく考え続けた末に出た答えだった。

にもかかわらず、その代わり映えのなさに何か焦りのようなものを感じた。半年も同じセーターを来て、同じ話をして、決まった行動をする弁造さんにカメラを向ける。それは同じシーン、同じ瞬間にシャッターを押す行為でもあった。当然、現像後のフィルムの中にあるのは、既視感のある弁造さんの暮らしばかりだった。そんなフィルムばかりを溜め込む行為に焦った僕は、今後の撮影方法を変えようかとも考えた。今のルーティーンを劇的に変える。一番手っ取り早い方法は、弁造さんの丸太小屋の近くに空き家でも借りて、もっと近いところから写真を撮ることだと思えた。

しかし、結果的には僕はその方法を取らなかった。その理由は今でこそいろいろと考えられるのだが、当時の僕は漠然と「それはどうも違う」と感じた。物理的な距離を縮めることで撮れる写真は変わっていくるだろう。毎日撮ればいいのだ。きっと写真は劇的に変わり、見えてくる弁造さんも変わってくれるだろう。しかし、他者を撮るということは、そのすべてを撮ることを意味するのだろうかという問いが僕の頭から離れなかった。四六時中一緒にいて、撮り続けること。それが他者に近づくということなのか。

他者を知り尽くすことと近づくこと。この二つは同じものではないと感じた。何がどう違うのか?と追求されると言葉に窮するのだが、僕にとっては近づくことは距離や時間を意味することではなかった。そこで僕が選んだ行動は葉書を書くということだった。

それまでも何かの折に弁造さんに手紙を書くことはあった。しかし、話したいことがあるなしではなく葉書を書く。そう決めた僕は何十枚もの葉書を買い込み、たいして面白い話題もないのに葉書を言葉で埋めて弁造さんに送った。

この葉書を送るという行為は僕の無精から結局1年も続かなかったと思う。それでも家からもちろん出張先などからも頻繁に送り続けた。弁造さんからは一枚も返信をもらった試しはないので、突如、立て続けに送られてくる葉書をどう思ったのか知ることはなかった。また、僕も改めて感想を求めることもなかった。

今になって、なぜ、葉書を送ったのかと、ときどき思うことがある。どう考えても葉書をたくさん書いて送ることが、代わり映えのない写真を変えることには繋がらない。それでも当時の僕は、考えた末に葉書を送ることにしたのだ。

想像しようと思ったのだ。他者という存在。そこに近づくということが距離や時間といった物理的な話ではないとしたら想像することではないか。他者とはどこまでも遠い存在だ。その遠い存在の日々を思うこと。買い物で何を買ったとか、1日の終わり、寝る間際にどのようなことを思ったとか、そんなたわいのないものを思うこと。目的は問いの答えを得ることではなく、ただ繰り返し思うこと。

これによって何かを変えられるのかどうか、今でもわからない。でも、当時の僕は漠然と弁造さんの日々を想像し、言葉を連ねることで、弁造さんという他者を自分の中にかたちあるものとして存在させようとしていたのだろう。その結果、ルーティンから生まれる写真に新たな何かを見つけようと思っていたのだと思う。

弁造さんの死後、小屋の片付けをしていると、輪ゴムでまとめられた葉書の束が出てきた。そこには見慣れた僕の雑な文字が並んでいた。内容は字の汚さ以上にひどくて本当にどうでもよいことばかりで一枚一枚読むのが恥ずかしくなるぐらいだった。

弁造さんはこのつまらない葉書を読んでどう感じたのだろうか。「まったく変わり者じゃ。毎度毎度、年寄りに昨日食ったものを聞くなんて。そんなもの朝起きた瞬間に忘れてしまってるに決まってるじゃないか」と笑ってポイと放り出したりしていたのだろうか。

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