弁造さんのことを書いていて、いつも頭のどこかにあった事柄のひとつが老いについてだ。僕が弁造さんと出会ったときは弁造さんはすでに78歳で、立派な老人という年齢だったけれど、その頃の弁造さんはまだまだ若々しく生気に溢れていた。
当時の弁造さんの口癖は、「絵をたくさん描いて個展をやる」というものだった。子供の頃から絵描きに憧れた弁造さんにとって個展開催は、自分の人生にとって絶対にやらなければならないことのひとつで、実現に向けた計画を楽しげに話してくれていた。
でも、いつからだろう。弁造さんは個展を開くということを口にしなくなった。理由は体調にあった。80歳を過ぎると弁造さんの体力は目に見えて落ちていった。80歳だ。落ちては当然だろう。ただ、弁造さんにとっての問題は指先の震えだった。この指先の震えによって思うように線が描けない。この状態は弁造さんの気持ちに重くのしかかった。
弁造さんはかねてから自分の絵は、線が命だと繰り返し語ってきた。線を重ねて陰影を描くのではない。一本の線で光も影も描き出してみせると。絵の技法に全く無知な僕にとって、それがどのような意味を持っているのか、推し量ることしかできなかったけれど、その一本の線を描くためには、筆を持つ指先の感覚が大切であることは十分に理解できた。
結果、弁造さんは思うように動かない指にいらいらを募らせ、描くことができなくなっていった。描きたいという気持ちを失ったわけではなかった。しかし、イメージ通りで描くことができないことの前で、「年をとっていいものなんて何もない。おいぼれて描けるようになったのはこんな線じゃ」と自嘲気味に笑うしかなかった。
そんな時期を過ごしているうちに弁造さんは、個展を開くということをほとんど口にしなくなった。それは僕にとって少し悲しいことだったけれど、これもまた弁造さんという生きることなのだという思いで見つめていた。
でも、個展を開くことを半ば諦めることで、弁造さんは描くことができたのだと、今は思う。
弁造さんは逝く2年前に一枚の絵を描き上げた。それは長年、エスキースを積み重ねてきた母と娘の肖像だった。なぜ、独身の弁造さんがこの題材をテーマに選んだのか、僕は何度もその質問を口にしたが弁造さんがきちんと答えてくれることはなかった。ただ、弁造さんにとって、描かなくてはいけない題材であること。僕が知ることができたのはその一点だった。そして、個展を開くということを諦めたことで、弁造さんは、この一枚を仕上げることから大きな喜たのだと思う。
弁造さんらしいと笑うしかないのだが、結局、僕が生前の弁造さんをつきあった14年間のなかで仕上げたのはこの1枚だった。弁造さんはたくさんのエスキースを描き、そして、母の娘の肖像をたった1枚だけ描いて、逝ってしまったのだった。
僕の脳裏には晩年の弁造さんがあの小さな丸太小屋の中でビニールの窓からの遮光を背中に受けながら、キャンバスに向かう姿が強く残っている。弁造さんは年を老いていくにつれて、キャンバスの前でうつろな目をして下を向き、じっとしている時間が増えていった。何かを考えているのか、それとも何も考えていないのか、その表情を読み取るのは難しかった。僕はそんなとき、弁造さんの老いについてよく考えていた。当時は、弁造さんの人生の終わりを知るよしもなかったけれど、それがそう遠くない将来、訪れることは十分に理解していた。でも、だからといって、その日に向けて、弁造さんに何をすべきかなんてことを言えるはずもなく、ただ、うつむいて黙っている弁造さんを見つめるしかなかった。
あのときの弁造さんを思い起こして感じるのは、想像することの難しさだ。前回、他者を理解するためには想像するしかないと書いておきながら、弁造さんが老いのなかで何を思い、下を向き続けていたのか、どれほど想像しても僕は堂々巡りのなかで立ち尽くしてしまう。想像が至らないのだ。生きることの絶対の約束である老いの中にあること、老いから伝えられることにすら想像が及ばないのだ。
想像することとはどういうことなのだろう。知ることなのだろうか。それとも知らないこと、手の届かないことを増やす行為なのだろうか。
でも、想像することの難しさや限界を知ることで、僕はこうして今日も弁造さんのことを考え続けている。いつか、僕も老いの真ん中にたったとき、ああ、そうだったのかと弁造さんのあのうなだれる姿を思い起こすことができるのだろうか。