うたた寝の記憶 #庭とエスキース

昨年の夏の終わり、マレーシアと日本の写真交流プロジェクト「Two Mountain Photography Project 3.0」に参加させていただくことになり、出展作品を制作するためにボルネオ島を旅した。このプロジェクトに参加して気づいたことのひとつが記憶と季節との関係性だった。きっかけは旅のなかで出会ったある日本人との会話だった。クアランプールに暮らして約1年間ほどになるというその人が言うには、わずか1年間のことがうまく思い出せないというのだ。いや、忘れてしまっているのではない。ひとつひとつの出来事ははっきり鮮明に記憶しているのに時系列に並んでくれないのだという。その理由を考えていくと、季節の変化のなさにたどり着いたのだと笑って教えてくれた。

赤道に近いマレーシアの気候はいわゆる熱帯気候だ。雨季、乾季という気候の変化はあれど、年間の平均気温を示すグラフは、折れ線ではなく横一本の線となる。日本はその対極だろう。真夏であれば熱帯気候の最高気温を上回るほどの高温となり、真冬となれば地域によっては零下20度にもなる。その間に春と秋があり、複雑で変化に富んだ気候条件となる。我々日本人の生活のリズムを作り出しているのは間違いなく、こうした四季の変化だ。そして、それは記憶をつくっていくことにも深く関わっているのだろう。つまり、我々日本人が過去の出来事を思い出すとき、そのときに肌感覚で捉えていた気温や湿度はもちろん、光の質や緑の色合いといった季節の気配が記憶に必要不可欠な要素として存在しているに違いない。

クアラルンプールで出会った人が言うにはマレーシアでの生活の記憶はそうした繊細に移ろいゆく季節感と結びつけることが難しいため、日本人の感覚のままでは時系列通りにうまく記憶することができないというのだ。もちろん、これは1年間という短い期間での感想であって、長く暮らせば雨季、乾季のなかにある微妙な季節感を捉えることができるに違いない。とはいえ、やはりこの列島で生きる僕たちの精神は、繊細な季節の移ろいに大きな影響を受けてきたと思う。僕自身が持つ記憶にあてはめてみても、常に季節感に結びついているというのは確かにその通りだ。

それは弁造さんとの記憶を思い起こしてみても、ひとつひとつの記憶がまさに季節とともにある。とくに弁造さんへの旅は新しい季節が巡ってくる頃を意識して出かけていたからだろうか。記憶の中の弁造さんは年代は曖昧であってもいつもはっきりとした季節の色をまとっている。そして、僕の日々のなかで自然と思い起こされる記憶も、今の自分が過ごしている季節と一致している。夏であれば濃緑の葉を茂らせた森を歩く弁造さんの背中を、秋であれば明るい黄色に色づいたメープルの木の下でおしゃべりをする弁造さんの笑顔を思い浮かべる。

たとえば、こうして厳冬期を迎えようとする今、思い起こすのは弁造さんと一緒に雪かきをした記憶だ。大雪の夜を迎えた日には、早朝、夜が明ける前から弁造さんと一緒に雪かきをした。朝早いと雪が軽くていいというのが早朝に雪かきをする理由だったが真冬の北海道の夜明け前の寒さはなかなかの厳しさですぐに手袋と長靴の中の指が凍れてしまったものだった。

でも、雪かきが終われば、何とも心地よい時間が待っていてくれた。小さな丸太小屋の中に逃げ込んでストーブに薪をくべると、温泉にでも浸かっているいるような暖かさに全身が包まれた。冷え切った頰はみるみるうちに血が通い出し、手足もじんじんと熱くなっていくのだった。そんなとき、頰を赤らめた弁造さんはいつも長い長い昔話をした。若い頃に絵を学ぶために東京の画学校の門を叩いたこと。極上のすいかを栽培し、町の話題をかっさらったこと。借金取りに追われて映画館に逃げ込んだこと。そういえば、あのときの弁造さんの口から語られる記憶も時系列はバラバラだった。でも、そんなことをおかまいもせず弁造さんは僕に向かって、思いつくままに自分の記憶を語るのだった。そして、長い長い昔話にひと段落をすると、雪かきの疲れが出るのか弁造さんは「ああ、疲れたわい」などと言って自分の背丈サイズのベッドにごろんと横になるとうたた寝してしまうのだった。

この文章を書いている今、窓の外では細かな雪が降っている。夜の静けさを静かに押し広げていくように降る雪。こんな冬の夜は話し疲れた弁造さんが眠ってしまった後の静かな時を思い起こす。

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