雪の色 #弁造 随想

春の嵐がきて、僕が暮らしている岩手は猛吹雪となった。これは毎年のようにやってくる雪だ。東京や西日本では気温があがり、暖かな風が吹き荒れるというのに東北より北では風雪で閉じ込められる。でも、不思議なことにこの時期の雪は温かい。雪が温かいだなんて矛盾でしかないようだが雪国に暮らす人にとっては手に取るような感覚じゃないだろうか。雪が吹き荒れ、たちまち積もっていく雪であっても手や顔に触れる雪のひとひらひとひらがとても温かですぐに溶けてしまうのだ。そんな春の吹雪の様子をもっとも端的にそして科学的に描いたのは宮沢賢治の「水仙月の四日」だろう。あの物語を開くと、この時期特有の温かな雪世界がどこまでも広がっていく。

今年もやってきた春の吹雪をやり過ごしながら、ちょうど今時期に弁造さんを訪ねたことを思い出した。いつも、青森からフェリーに乗って函館に渡り、陸路で弁造さんが暮らした新十津川を目指すのだが、夜明け前の函館に接岸したときにはもうすでに吹雪となっていた。それでもそこで立ち止まっていてはどうしようもないと恐る恐る走り始めたのだが、進めば進むほど吹雪がひどくなっていった。普段であれば函館から弁造さんの丸太小屋まではのんびり進んでも約6時間ほどの距離。しかし、その日はノロノロ運転しかできず、走っても走っても到着しないどころか、札幌を過ぎた時点で暗くなってしまう始末。さらに吹雪の状況も悪化し、もう前には進めないと決断した僕は車の中で寝袋にくるまるしかなかった。

そして迎えた朝。車を包み込むようにどっさりと積もった雪をかきわけるようにドアを開けてみると、拍子抜けというのはこういうことを言うのだろうか。そよとも風は動かず、空も雲ひとつなく晴れ上がっていた。

もそもそと朝ごはんのパンを食べると僕はなんだか騙されたような気持ちを抱えながら出発し、弁造さんの丸太小屋に到着すると、いつものように弁造さんとの時間を始めた。

まず手始めにやったのはやっぱり雪かきだった。弁造さんの雪かきはまずは農具が入っている大きな納屋から始まった。午前中いっぱいかけて、雪を下ろすと次は丸太小屋の雪かきに移った。納屋の屋根に比べ、丸太小屋の屋根の勾配はきついため、僕が登っておろすことになった。そんなときの弁造さんはまさに監督だ。雪下ろしにも弁造さん特有の美意識があるので、結構指示が細かかったりする。しかも「あんた、まったく雑な男じゃな。岩手県の男はみんなそんなもんか」と嫌味もしばしば飛んでくる。もちろん、僕も遠慮がないので「そんなにきれいに雪かきしたって、どうせ溶けてなくなんるんだから、適当でいいじゃないですか」なんて憎まれ口を叩いたりもして、二人で笑いあったりした。

そして、雪かきが終わるといつも丸太小屋に入って、長い午後を休憩とおしゃべりの時間にあてた。

湯を沸かすため薪ストーブの火を強くすると頰が熱くなった。弁造さんを見るとやはり赤い頰をしていた。のんびりとした午後の時間は光の色を見るひとときでもあった。ビニールを張った窓の向こうは純白に近い色合いから次第に淡い黄色を帯びていき、やがて、陽が沈むと青へと変わっていくのだった。

こんなたわいもない時間に意味や気づきを見出すのはおかしなことだと思う。雪が降ったからそれを片付け、終わったら、薪の火で暖まりながら、変わっていく雪の色を見ていただけだ。でも、そんな時間が言葉では尽きせぬほど愛おしく感じるのはなぜだろうか。

それはもう弁造さんがいないからなのかもしれないけれど、あの時に見た雪は初めて見るような、それでいて懐かしくてしょうがないような不思議な色合いだったのは確かだ。

弁造さんとの時間はいつも僕の心を静かに揺らしつづけている。

 

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