来年1月24日から30日で開催する銀座ニコンサロン(巡回展の大阪ニコンサロンは2月22日から28日)での個展で展示する作品の制作が終了した。
約1週間かけて、それこそ朝から夜中近くまでひたすら暗室にこもりきりになって、自分自身まで現像液にどっぷりと浸かるような気持ちになって作業を続けた。
僕の場合、展示用の作品展は、20×24インチの印画紙で制作する。これは僕の暗室で制作できる最大サイズとなっている。この20×24インチの印画紙は一般的にシートで販売されている最大のサイズ。引伸し機を使うカラー印画紙現像の場合、モノクローム作品制作のようにロール印画紙を使って壁面投影というのはなかなか現実的ではないので、暗室作業を行って作品制作を行う写真家にとっては最大限の大きさということが言える。
とはいえ、現在の写真展示は、デジタルカメラと出力機械を使った超大判プリントが決して珍しくはない。正直、僕の狭い暗室で20×24インチまで伸ばすことは、様々な工夫と細心の工夫を重ねてはじめて実現するのだけど、東京などで超大判の写真を目の当たりにすると、自分の最大限の写真がとても小さく感じられたりする。そんなときはたいてい、「いつか大きな暗室で、現像バットを手作りするなどして壁面投影で大きな作品を作るぞ!」などと思ったりもするがそんな勢いだけの気分を現実とするのはなかなか難しい。
そんなわけで今回も最大限の20×24インチということになったのだけれど、実際に伸ばしていくと、僕が撮影に使用している6×6サイズのフィルムの粒状性やシャープネスの関係性を考えると、このサイズが最も気持ちよく見られる最大サイズのような気もする。ネガに映し込まれた弁造さんの庭の光や、エスキースのかすれた鉛筆の線が破綻することなく伸び伸びを印画紙の上を描くさまは、思わず眼が覚めるような美しさだった。
今回、セレクトの際に意識したのは、弁造さんの視点だった。庭とエスキースという弁造さんが持ち得たふたつの窓。その二つから弁造さんが社会と己を見つめる視点を写真で立ち上がらせたいと思った。
そのためにセレクトにはいくつかの基準を設け、また、先立っての撮影時で工夫していた点を加味しつつ、弁造さんの「見ていた世界」を再現しようとした。
写真集でもそういうことは意識したのだけれど、これは写真を大きくすることで得られる没入感というか写真の世界にそのまま入り込んでしまったかのような感覚を得られてはじめて体感できることでもあるように思えた。
そして、実際に大きく伸ばされ、印画紙の上に克明に、そして美しく描き出された庭とエスキースはまさに弁造さんの視界がそのまま目の前にあるかのような錯覚を覚えるものとなった。
弁造さんが四季の移ろう庭を歩き、木々を見つめ、池に咲く花や稔りの畑を眺めながら伝えようとした世界と、己の胸の内に湧いてきた感情を線として落とし込んでいったエスキースがそのまま目の前にあるかのように思えた。
こういう感覚を得たときに感じるのは「写真」の凄さだ。写真には、撮影者の技術とか感覚などは関係なく、かつてあった世界を鷲掴みにし、時間を越えて届ける力がある。正直、すごいなって思う。
今回の展示作品制作で暗室にこもった1週間は、再び弁造さんの美しい庭を歩き、エスキースに描かれた弁造さんの女性たちに出会う心温かな時間でもあった。
実際の展示では、この時間がニコンサロンの空間を満たし、ご覧になっていただい人には弁造さんのふたつの窓を通して何かが伝われば本当にうれしい。