紙切れのエスキース#「庭とエスキース」展

最晩年の弁造さんは、約50年近く続けた自給自足の庭づくりの完成を告げ、残りの人生を絵の制作に専念すると宣言した。

そうは言ってもその後の数年間で完成させた絵はわずか1枚で、弁造さんが描くのはエスキースばかりだった。

加齢と持病から指が自由に動かず、思い通りの線が描けないことが絵が完成しない原因のひとつだったが、それでも弁造さんは鉛筆を握り、女性を中心としたモチーフを繰り返し描いていた。

僕と一緒にいるときには、弁造さんはスケッチブックにエスキースを描くことが多かった。しかし、死後の遺品整理で出てきたのは紙切れに描かれたたくさんのエスキースたちだった。弁造さんは、ふと思いついたとき、あるいは目覚めた時、身近にあった紙切れに頭の中にあるイメージを描いていたのだろう。それは言うなれば、エスキースのエスキースのようなものでほとんどが未完成と呼べるものだ。もちろん、弁造さん自身もこれを自分の絵として認めるものではないだろう。きっと「そんなもの、落書きじゃ」と笑うに違いない。

でも、こうして今は僕の手の中にあるエスキースを眺めてみると、不思議な生々しさと温度が立ち上がってくるのはどうしてだろうか。肉筆の強さ、未完成ゆえの抽象さ。その理由はいくつかあるだろうが、おそらく、こうした下絵の下絵が持つ不思議なリアリティーは、弁造さんの身体に最も近いところから生まれたことに関わっているのだろう。

積み上げられたエスキースを見るたびに、弁造さんが何を思い、この絵を描いたのか想像してみる。その想像はいつも行き止まりになるけれど、この行き止まりの前に立ち止まりながらも、そのまま見続けることが「他者を見つめること」の本質につながるのではないかと思う。

「庭とエスキース」展では、弁造さんのエスキースを大伸ばしで展示することになる。そこから何が見えてくるか、僕自身も楽しみにしている。

 

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