弁造さんが逝ってしまった後も弁造さんへの旅を続けた。でも実際に写真を撮ろうとすると、弁造さんのいないファインダーの向こう側のどこにピントを合わせてよいものか判断ができず呆然としてしまった。
弁造さんが生きているときから、弁造さんがいなくなっても撮り続けようと幾度となく自分に言い聞かせていた。だから、ファインダーの向こうに弁造さんがいないことになど、うろたえるはずはないと考えていたけれど、実際は違っていた。
弁造さんがいるといないのではこれほど違うものかと驚くほど、かつて弁造さんが暮らした世界はよそよそしく、初めて訪れるような印象を抱いた。
それでもシャッターを押した。写真を撮るのは本当に簡単だ。たとえファインダーを見なくても、露出とシャッタースピードさえ合わせておけば、フィルムには何かが写ってくれる。
でも、たった12枚撮りのフィルムがこれほど減らないものかと驚いた。かつて多い時には滞在1週間で50本近く撮ることもあったが、弁造さんの死後の世界はフィルムを消費してくれなかった。
どうやって、続けていこうか。
数日間の滞在を終え、再び海峡を渡って岩手を目指す帰途のなかで正直そう考えた。
しかし、答えを出せるわけでもなく、ただただ時間が過ぎていった。そして、再び季節はめぐり、懲りもせずまた弁造さんの暮らした土地に向かった。撮影を続けていく新たな策があったわけではない。きっと習慣みたいなものに過ぎないのだろう。季節がめぐれば海峡を渡って北を目指す。そういうことだった。
ファインダー越しに見る世界の印象は前回と同じようなものだった。遺言によって取り壊された弁造さんの丸太小屋の跡には可憐な花々が咲いて美しく、それを見た僕は嬉しく思った。この地の自然が弁造さんのことを覚えてくれているような気がしたからだ。それでも、やはり決定的に何かが足りなかった。
弁造さんはいない。死を語る多くの言葉は観念に過ぎず、死の本当の姿とは「いなくってしまった」という事実の強靭さだということを思い知るしかなかった。
そうか、このまま不在を撮っていくしかないんだな。その瞬間は、そう諦観するしかなかったが、現実はまた違った姿を僕に見せてくれた。
弁造さんが不在となり、そのがらんと空いた場所に弁造さんではない人たちが入ってきたのだ。それは生前の弁造さんを慕っていた人たちで、僕は彼らに迎えられ、弁造さんのことが好きだったという共通点でゆるやかに繋がっていくことになった。
僕にとって、それはとても意外なことだった。弁造さんを追いかけている間は弁造さんにしか見えず、フィルムに写っているのも弁造さんばかりだった。ところが弁造さんがいなくなると、まるで登場人物が変わるかのようにいろんな人の姿が写し出されることになったからだった。
人と人の縁などと僕が言うとなんだか陳腐にしか聴こえないけれど、こうして人は大切な存在の不在を皆で埋めていくものだろうかと驚き、ああ、きっとそうなんだと納得したりした。
こうして僕は弁造さんがいた頃よりも少しペースを落としながらも弁造さんが暮らした場所への旅を続けることになった。
弁造さんの丸太小屋の跡ではその後も花々が咲き続けた。夏が来るたびに草原を占める花の種類はなぜか変わり、まるで弁造さんという存在の記憶を花々がリレーでつむいでいるかのようだった。
花からしてみると、弁造さんのことを語り続ける僕たちも記憶を運ぶリレーをしているように見えたのかもしれない。