窓際の桜木

2012年4月23日、弁造さんが亡くなったという知らせを聞いた僕は、それまでずっと続けてきた弁造さんへの旅と同じように船で海峡を渡り、北海道の弁造さんが暮らした土地に向かった。

遺体となった弁造さんと対面し、通夜、葬儀を経て弁造さんを見送った後、約1週間かけて僕は弁造さんが暮らしていた丸太小屋に寝泊まりしながら、小屋の掃除や遺品の整理を行った。

弁造さんの遺言には、自分が死んだら丸太小屋や物置小屋のすべてを解体し、処分することと記されており、遺族会議でも遺言に沿って解体されることに決まった。

実際に整理を始めると、小さな丸太小屋からは大量のモノが出てきた。しかし、弁造さんが大切にしていた絵やエスキース、肉筆のメモなどを残し、ほかのものはすべて処分することにすると、弁造さんの遺品は、ダンボールが10箱ぐらいだった。それらのダンボールを僕の車に乗せると、弁造さんの人生の記憶が思いのほか小さなことに少し感傷的になった。と同時に実に弁造さんらしいと誇らしくも思った。

丸太小屋の中をすっかり空にして、弁造さんが使っていた掃除機で掃除をしたあと、僕はこの丸太小屋にいる時間が最後になることを噛み締めながら窓際に向かった。そこには、漬物用のバケツがあり、今まさに咲き誇らんとする赤い花芽をつけた桜木の枝が生けられていた。

弁造さんの訃報を聞き、駆けつけた僕はまず遺体となった弁造さんと寺の2階で対面し、すぐに丸太小屋に向かった。そこにはもう弁造さんがいないと知りつつも、なぜか弁造さんが暮らした丸太小屋に今すぐに行かなければと思った。

そして、味わい深い手作りのドアを開けた瞬間、目に飛び込んできたのが、窓際に生けられた桜木だった。

弁造さんは春の到来を願って庭の桜木を持ってきて、室温で早く芽吹かせようとしたのだろう。例年、弁造さんの庭の山桜は連休明けの開花だったから、少しでも早く花見をしたいとでも思ったのかもしれない。

でも、弁造さんとの長い付き合いのなかで、こういうことをした弁造さんを見たことは後にも先にもない。自然を知り尽くしていた弁造さんは、自然のリズムのなかで、”自然を味わう”ことを信条としていた。

だから、バケツに生けられた桜木を見たとき、弁造さんらしくないやと少し驚いた。なぜ、弁造さんは春の到来を急いのだろうと訝しみ、こんなことするから逝ってしまったんだと弁造さんを責めた。

でも、その桜木が弁造さんとの別れの時間を不思議なほど温かなものにしてくれた。整理すればするほど、弁造さんの丸太小屋が日毎に広くなっていき、新しい空間はまさに空虚が広くなるように思えた。桜はそんな風に感じる僕の心の隙間を埋めるかのように花芽を大きく膨らませていった。

弁造さんが暮らした世界を後にするとき、僕の車の片隅には、花を咲かせた桜木があった。

桜木は僕と一緒に海峡を渡り、車の中で可愛らしい淡い薄紅色の花びらを揺らしていた。そして、僕が暮らす岩手に着いたとき、その役目を終えたように、玄関先ではらはらと花びらを散らした。

弁造さんと過ごした記憶はいつも美しい。でも、僕の中で、弁造さんの丸太小屋に生けられていた桜木が夜が開けるごとに咲いていく姿と、最後に散っていく花びらほど美しい記憶はない。

まさかそれはないと思いつつ、あのさくらは弁造さんが僕への最後の贈物として、窓際に生けてくれたのだろうかと想像したりもする。

 

 

 

 

 

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