再び暗室へ #Benzo Esquisses 1920-2012

 2022年から2023年にかけて、いわゆる年末年始はずっと暗室に入っていた。暗室というのは空間だが僕にとっては“時間”だ。それも特別なものだ。

ネガシートに並ぶ褐色のネガをルーペで覗き込み、レンズが映し取った光景を確認する。このレンズを向けたのはもちろん僕なのだが、ルーペの先から受ける印象は既視感とは少し異なっている。決して忘れてはいない。指先に伝えられた硬く冷たいシャッターの感触も、レンズシャッター特有の薄く鋭利な刃物を擦り合わせたかのような乾いた金属音も記憶の中に残っている。しかし、ネガが写し出す光景はいつも新しい。レンズの前にあったはずの世界であることに疑う余地はなく、僕自身が見たはずなのだが、ときに写真は自分が通過したはずの時間から、まだ見ぬ世界の断片を運んでくるような気がする。写真は不思議な魔法を使い、流れ去った過去を刷新していくようだ。そして、この写真の魔法に触れられる時間が僕にとっては暗室だ。引き伸ばし機にネガをセットして印画紙に投影し、現像機に挿入する。数分後、バットを満たす水に音もなく滑り込んだ印画紙が映し出す風景は、懐かしさを漂わせながらも生まれたばかりの生命が最初の呼吸を開始したかのような生々しさをまとっている。

こうした印画紙を前にして得られる感情はまさに取り留めがないとしか呼びようがない。過去に対して、手を伸ばし、触れることは誰にも許されないことだが、写真が持っている過去の決まりはやや甘い。暗室内の限定とも言えるのだろうが濡れた印画紙に指先を伸ばすと、新たな過去に触れることができたかのような不思議な感覚がやってくる。目の前に起こっている現実の意味がどのようなものなのか、簡単にはわからないように、生まれたての過去に触れる時間は定かなものを連れて来ることはない。だからこそ、印画紙が宿す光景を前にして浮かんでくる感情はどこかに着地することを目指すのではなく、ふわふわと漂い続けるだけだ。

 今回の暗室の時間もどこまでいっても感情の浮遊の繰り返しだった。なぜなら、束になったネガシートの中には、あの弁造さんが描き、遺していったエスキースだったからだ。ネガを覗きながら何度、想像したことだろう。あのヨレヨレ黄色のセーターを着た弁造さんが大きなイーゼルを前に絵筆を握り、呆けた表情を浮かべながら描き続けるその後ろ姿を。それは僕にとって繰り返し思いだし続けてきた記憶のシーンだが、こうして改めてエスキースを前にすると、あのとき聞くことができなかった絵筆がキャンバスを擦る小さな音や、丸太小屋に設えたひとつだけの窓の向こうで鳴る木々のざわめきまでが聞こえてくるような気がするのだった。そして、僕はそこに何らかの意味を求めるのではなく、弁造さんとの再会を深呼吸して胸に吸い込んだのだった。

 ここ数年、僕は弁造さんが育んだ庭に弁造さんが遺したエスキースを持ち込み、一枚一枚にレンズを向けてきた。この撮影を始めた理由は『弁造 Benzo』(2018年 私家版)と、『庭とエスキース』(2019年、みすず書房)という2冊の本にあった。2012年に逝った弁造さんとの記憶をたどるこの2冊の制作を通じて、僕はあらためて弁造さんという他者を深く見つめることになった。結果、多くの気づきを得たかのようにも思えた。しかし、その一方で弁造さんという他者を、何か別のものに置き換えているような居心地の悪い感覚を抱くようになったのも事実だった。僕にとって弁造さんとのことを思い返すのは出会った頃からの日常だったが、この居心地の悪さはこの2冊の本を作る以前にはないものだった。煩悶というと少し大袈裟だがそういう日々がしばらく続いていたような気がする。くたびれたキャンバス、しわしわのチラシ、板切れ‥‥。弁造さんが遺したエスキースにレンズを向けようと思ったのは、2冊の本を通じて弁造さんという人生が多くの人が届き始めた頃だった。

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