桜の記憶#Benzo Esquisses 1920-2012

僕が暮らす岩手の雫石でも桜の開花が始まった。農業を営む家が多いせいか、雫石の田園には大きな庭を持つ屋敷が点在して建っている。こうした農家の庭にはたいてい庭木として桜が植えられている。何世代も住み継がれてきた歴史ある家が多いからだろう。庭木と言っても庭を覆うように枝を伸ばすその佇まいは、大樹と呼ぶのに相応しい。そして、雫石に春の到来を告げるのは、これらの庭に立つ桜たちだ。雪が消えたばかりで農作業が始まる前の田畑は、黒い土と枯れ草が広がるばかりで殺風景なものだが、桜が咲き始めるとその表情ががらりと変える。広々とした田園風景に薄紅の点がぽつぽつと増え、一気に賑わっていく。この数日間は、まさに春の目覚めを体感するような時間だ。

弁造さんの庭にも桜にまつわる記憶がある。

北国に暮らす人にとって、待ち焦がれた春の到来を高らかに宣言してくれる桜は特別な存在だ。それは弁造さんにとっても変わりない感覚なのだろう。その証拠に弁造さんは、自給自足という意味では必要性のない桜を庭にたくさん植えていた。とくにタニシを養殖していた池の周り木々は、花びらの色が濃く鮮やかな山桜を中心に構成されていていた。

大木に成長したこの山桜の下で弁造さんと花見をしたのは出会って間もない頃だったから、弁造さんは80歳になるかならないかで、僕も20代半ばという若さだった。

桜が咲く時期といっても油断すると雪に見舞われる北国の春のことだ。通年であれば花の下でのんびり座って花見ができるほどの陽気は望めるものではなかった。でも、ちょうど満開を迎えたその日は驚くほど暖かく、春爛漫といわんばかりの日差しが庭に降り注いでいた。そこで僕は「花見をしましょう」と弁造さんをブルーシートを敷いて桜の下に誘い出し、スーパーで買ってきた惣菜を並べた。桜の花びらを通って降ってくる陽光は柔らかで少し眩しく、弁造さんは目を細めてビールの缶に口をつけた。

その日、朝から弁造さんはいつのように笑うことはなかった。なんでも入れ歯の前歯の一本が抜けてしまうというちょっとしたアクシデントがあり、その姿が恥ずかしいという理由からいつもおしゃべりも影を潜めていた。でも、光を受けて白く光る桜の下で座っている気持ち良さに入れ歯のことなど忘れてしまったのだろう。最終的には歯欠けの入れ歯を大きく見せて、たくさんおしゃべりして、明るく笑ったのだった。

この春の日の思い出は、僕のなかにある弁造さんと庭をめぐる記憶に深い印象を残すことになった。そして、弁造さんが徐々に年老いていく姿を見つめるなかで、僕はもう一度、あの日のように桜の下で花見をしたいと願うようになっていった。

花見なんて容易いものだと当時の僕は考えていた。しかし、結局、弁造さんと花見をしたのはこの1回のみとなった。桜の開花が近づくと僕は弁造さんに何度も連絡し、訪れる時期を図るという行動を何年にも渡って続けた。もちろん、桜は毎年必ず咲いてくれた。しかし、北国の自然は気まぐれで、霜が降って蕾の大半がダメになったり、ようやく七分咲きを迎えた花が強風で飛ばされてしまったりして、弁造さんと花見をした日のような満開の桜に出会うことはできなかった。

でも、この結果がもたらした出来事もあった。それが弁造さんの死後、部屋の片付けをした際に片隅から出てきた使い捨てカメラだった。埃まみれの状態で、このカメラの中に何かが写っているとは到底思えなかったが、万が一という思いでネガフィルムを現像してみたところ、そこに映し出されたのは満開と思しき庭の桜だった。上手な写真とはとても言えない。でもフィルムには、弁造さんが庭を歩き回って桜に向かってシャッターを押したときの、その眼差しがそのまま定着されていた。きっと、春になると「桜、桜」と大騒ぎしながらもいつも悔しさを残して帰る僕を哀れだと思ったのだろう。弁造さんは僕に黙ってわざわざ使い捨てのカメラをどこかから買ってきてシャッターを押した。でも、それを現像することもなく、また僕にこのカメラの存在を伝えることもなかった。単純に忘れてしまったのか、それとも、気恥ずかしくなったのかはわからない。ただ言えることは、もし満開の桜に出会うことができていれば、このカメラの存在もなかったということだ。そのことを思うと、予期せぬ出来事とは過去という時間のなかで失ったものへの不思議な辻褄合わせのようにも思えてくる。

また、弁造さんが逝ってしまい、主人を失った丸太小屋に残されていたのは、エスキースだけではなかった。見慣れぬものだったから、部屋に入った瞬間に気づき、ためらわずにそれが置かれていた窓辺に近寄った。ビニールが貼られた小さな窓から差し込む浅い春の陽を浴びていたのは数本からなる桜の枝の束だった。

4月の終わり、きっと強風でも吹いたのだろう。弁造さんは庭から風で折れてしまった桜の枝を見つけた。よく見ると、枝先にいくつもの蕾が付いている。丸太小屋の窓辺に置いて、陽を当ててやれば咲いてくれるだろうか。そんな風に考えた弁造さんは、桜の枝を漬物用のバケツに差して、陽当たりの良い窓際に置いた。そして、咲く花を見ることなく逝ってしまった。弁造さんの最後の日々をこんな風に僕は想像した。

弁造さんの死後、僕は1週間ほどの時間をかけて丸太小屋の後片付けをした。その間、蕾は褐色から緑へと変わりながら大きく膨らみ、やがて隙間から花びらの薄紅色を覗かせた。蕾の中できれいに折り畳まれた花びらはあと数日もすれば開くだろう。蕾のこの姿は、弁造さんという存在が早くも遠のいていくような感覚をもたらした。

やがて片付けは終わり、僕は弁造さんが遺した桜の枝とともに自分が暮らす岩手に戻った、結局、桜の花は弁造さんが暮らした北海道ではなく、見知らぬ岩手の地で淡い色を広げて咲き、すぐに散ってしまった。

こういうことがあったからだろうか。僕のなかで弁造さんの庭の桜は現実からふわりと浮き上がり、記憶という地面に根を張って花を咲かせる存在となっていった。そして僕の記憶の中に生き続けている弁造さんという存在の語り口をひとつ増やすものとなってくれた。

その一方で、エスキースを撮影を続けていくことで、満開の桜に出会えるのでないかと期待していた。過去という時間から生まれた記憶は今という時間に出会うことで、きっと新しい姿に変わっていく。そうだとすれば、僕の中にいる弁造さんもまた、今という時間に出会うことで新しい像を結ぶこともできるかもしれない。新しい季節を迎えるたびに庭を訪れ、エスキースに向かってシャッターを押す。この行為のなかで生まれるものがあるとしたら、もしかしたら、僕の中で生まれる新たな弁造さんの姿かもしれないと考えたからだった。ただ、それはそのまま疑問として残った。今になって僕が新たな弁造さんの像を作り出すことは、「弁造さんに弁造の生きることを返す」というこの撮影の目的に大きく矛盾することにはならないだろうか。それとも一見、矛盾しながらも底では繋がっているものなのだろうか。答えは出せなかったが、やはり満開の桜をもう一度見てみたいと願った。

そして、結果を先に言ってしまうと、昨年の春、僕はとうとう満開の桜に出会った。五分咲きを迎えた状態から満開を向かえ、散り始めるまで、花の移ろいを一週間かけて眺めた。花々は雨に濡れそぼり、陽光に照らされ、風に揺らいだ。タニシの池の水面と僕のカメラのファインダーには刻々と表情を変える花の姿が映し出された。それは弁造さんの庭が花という言葉で、弁造さんという存在を静かに語り継いでいるかのような時間だった。僕は耳では聞くことができない言葉に満足しながらも、散りゆく花びらには後ろ髪を引かれる思いで庭を去ることにしたのだった。

弁造さんは僕が岩手に戻るとき、いつも手を振って見送ってくれた。僕はバックミラーの中によれよれの黄色いセーターを着た弁造さんの姿を見つけ、やはり後ろ髪を引かれる思いでアクセルを踏んだ。そんな遠い記憶を思い起こすたび、僕はあの弁造さんという人を最後まで見届けることができたのだろうかという問いを繰り返す。永遠に連続する時間に最後はないのは承知していることだ。しかし、僕は弁造さんの生きることが最後に至る前に、見届ける前に背を向けたような気がしてならない。でもだから、こうして今も弁造さんと出会い続けることという感覚を抱くことができるのだろうか。

もうすぐ弁造さんが暮らした新十津川に桜が咲き始めるだろう。庭の桜は美しい花々をあのタニシの庭に今年も映し出すのだろうか。

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