わからなさ #庭とエスキース

弁造さんを見つめるなかでずっと謎として僕の前に存在し続けたのが「弁造さんの女性たち」だった。

「弁造さんの女性たち」という名前は、弁造さんの死後、僕の手元に遺されたエスキースの束を繰り返しめくり、眺め続けたなかで僕が勝手に名付けたものだ。でも、それ以外にはなかったのだ。チラシの裏、レシートの裏、封筒の片隅、紙の白い部分を見つけたとき、弁造さんは描いた。女性ばかり。横顔、髪をかきあげる、ベッドに横たわる、傘をさす。弁造さんは自らの思いのなかに浮かんだ女性たちの仕草を描き続けた。

この女性たちが誰で、弁造さんにとってどういう意味を持つのか。それは、僕のなかで今も謎であり続けている。少し前に僕は、弁造さんがこうした女性たちを描く動機としてフロイトの言葉を借りた。この女性たちは、弁造さんのリビドーではないのかと考えたのだ。

それは今でもそうかもしれないとも思う。本当に描きたいもの。それを誰に見せることもなく、自分のために描く。92歳で逝くまでずっと独りで生きてきた弁造さんにとって、絵に嘘をつく理由は何ひとつなかった。その弁造さんが紙の余白に繰り返し描き続けたものが「弁造さんの女性たち」だった。それをリビドーではなく、どう呼べばいいのだろうか。

でも、果たしてそうなのだろうかと思いを拭い去ることができずにいる。それは認識の過ちを予感してということではない。ひとことで言うと「他者を理解する」ということの困難さの前で立ち止まってしまうのだ。

僕が弁造さんに出会ったのは25歳の頃だった。当時の僕は他者の生きることに写真で近づきたいと考えていた。なぜ、そんな風に考えていたのか、そのときの僕にとってはそれなりに理由もあった。でも、今思い返してみるとただただ漠然とそう思っていたという感覚が正しいと思う。

そんな僕が近づくべき他者として、この人だと思ったのが、その時点ではたった一度しか会ったことがなかった弁造さんだった。弁造さんの生きることは僕の前に熱を放ちながら強く存在していて、それに向かって近づき、シャッターを押すだけでよかった。僕には聞こえていた。弁造さんの生きることが近づいてくる足音がはっきりと耳に届いたのだ。

今でも、弁造さんの生きることを僕はありありありと形にすることができる。残されたのはエスキースたちと弁造さんの生きることを写し取ったフィルムと印画紙で、いずれもペラペラなものに過ぎないが、それでもその一枚一枚からは匂いも音も手触りも、そう弁造さんのすべてが溢れ続けてくれる。

それでも、理解することはまた違うとずっと感じている。他者を理解することはそんな簡単なことではないと思う。理解できないと言っているのではない。でも、わかったと思った瞬間、喉が詰まるような感覚に捉われる。わかったと決めてかかるのは簡単だけど、そう思った瞬間、「近づくこと」を力づくで終えてしまうような気がするのだ。そして、せせら笑う声が響くのだ。「ふん、何がわかった??。生きることの上っ面をすべって終わりなのか」と。

そんなことをいつも僕に突きつけてくるのが、弁造さんのエスキースだ。紙切れに描かれた「弁造さんの女性たち」は僕の”わかった”をいつも遠くに突き放す。わかったと思った瞬間、軽やかにすり抜けて、少し離れた場所で涼しい顔をして佇んでいるのだ。

弁造さんが思いのまま、感じたままに描いた女性たち。ここに弁造さんにとっての深い意味が存在しないわけはないだろう。でも弁造さんは、女性を描く意味を最期まで語ることはなかった。だから僕にできることは想像するしかなく、事実、同じ道を延々と周回するように考え続けてきて、自分なりに答えらしいことを出したりはしたけれど、本当のことを言ってしまうとやっぱりわからないのだ。「弁造さんの女性たち」を前にしたとき、そこにあるのは深々と埋もれてしまうようなわからなさなのだ。

でも、それこそがもしかして、「他者に近づくこと」ではないのだろうかとも思う。他者というどこまでも遠い存在を知ることは、このわからなさこそがすべてであって、そこからしか始まらないのだと。

「弁造さんの女性たち」は今日も僕にわからなさを突きつける。そこで今日も知るのだ。どこまでも遠く離れた他者という存在と、そこに向かう過程で聞いた、ゆっくりとこちらに向かってくる足音の確かさを。

 

 

 

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