遺品から見つけたもの#「庭とエスキース」

庭とエスキース展で重要な対象となっているエスキースは、弁造さんの遺品となる。弁造さんが突然の死を迎えたことで主人を失った小さな丸太小屋を整理した際に出てきたものだ。もちろん、生活の場だけに遺品はエスキース以外にもいろいろとあったが、残すもの残さないものを選別していく判断として、絵以外には”弁造さんの肉筆が記されたもの”と”写真”を優先することにした。

そうして整理した遺品を僕は自宅の仕事場に持ち帰ることになったのだが、いざ持ち帰ってみて感じたのは、弁造さんという人物の記憶の集積をどのように迎えればいいのかという、ごくごく素朴な疑問ことだった。

写真を年代順に並べる、メモの内容を分類化する。普通に考えつくことを少しづつ進めていったのだけど、やればやるほどにこの疑問も濃くなっていった。いくら長い付き合いだったとしてもやはり他者の人生だ。そこに何かを見出し、自分のものにするという行為そのものに、意味を見出せずにいた。

それでも、放り出すことができず、整理を進め、カメラを向けているうちに変わっていったのが僕のなかでの弁造さんという存在の立ち位置だ。弁造さんは死んでしまった。その事実は変わらないにしても、より深く弁造さんの人生を追っていくことで、「死」に絡め取られた弁造さんの存在を、もう一度こちら側に呼び戻すと言うと言い過ぎだろうか。でも、窓とエスキースというふたつの窓から弁造さんを再び見続け、考えた結果として残ったのは、弁造さんが死という硬直した世界の中の存在ではなく、僕たちが暮らすあやふやで不確かさのなかで浮かんでいる生の世界で、僕たちと共に姿を変え続けてくれるという実感だった。そしてその実感が深まれば深まるほどに、僕は弁造さんという人生に近づくことができているとも感じるようになった。

もしかして、近しい者の死を前に残された僕たちができる唯一のことは、この実感を得ることだけかもしれない。

今日も「庭とエスキース」の展示作品を暗室で制作する1日だ。

 

 

 

 

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です