弁造さんに返すもの #Benzo Esquisses 1920-2012

弁造さんが遺したエスキースで構成された「弁造さんのエスキース展」は、東京の荻窪にある本屋「Title」スタートした。

本棚が並ぶ1階店舗の2階。居心地の良い小さなギャラリーの壁面は弁造さんのエスキースで埋まると、弁造さんが描いた線と色彩が溶け合い、会場全体がひだまりのような空気感に包まれた。

やはり淡い黄色が立ち上がってきた。弁造さんがなぜ黄色い絵の具を使い続けたのか僕は聞いたことがなかったが、弁造さんのエスキースの印象は黄色だ。黄色の背景、黄色の肌を持つ女性。黄色の服を着た女性。モチーフが女性ばかりというもの弁造さんの絵の特徴だが、檸檬色のような淡い黄色から、赤と黒を混ぜた橙に近い重い黄色までさまざまな黄色が執拗に使われていることもそうだった。

そうした絵が並ぶと、そこにあるのはまさに陽光だった。弁造さんは夏でも薄暗い丸太小屋のなかで、朝の柔らかで澄んだ日差し、昼間の強く鋭い日射、そして午後の穏やかに差し込む斜光を絵の具に替えながら描き続けていたんだなとしみじみ感じた。

展示会場は満足いくものだったが、それと「弁造さんの生きることを奪ったのではないか」という思いは別だった。そもそも僕が弁造さんにカメラを向けるきっかけは、写真を撮ることを通じて他者に近づけることができるのではないかという稚拙でありながらも、僕にとっては切実な思いからだった。弁造さんにカメラを向けている何年もの間、僕はそのことを忘れることはなかったと思う。自分でも驚くほど弁造さんという存在にのめり込み、まるで弁造さんが僕の胸に住みついたと感じられるほど、毎日毎日弁造さんのことをあれこれ考え続けた。

しかし、それが大切な部分を見落とす原因になったのだろう。弁造さんという他者に近づくことを通じて、僕は弁造さんという存在を表現するようになっていったが、その過程のなかで、そもそも他者を表現することは何かという考えを突き詰める時間が完全に欠落していた。

来る日も来る日も弁造さんのことを思い巡らせていることに慢心した僕は、自分の中にある弁造さんをそのままのかたちで表現として表に出していくことに疑う気持ちを持たなかった。結果、自分が表現した弁造さんを改めて前にしたとき、これは本当にあの弁造さんなのだろうかという問いに答えることできないという問題に直面したのだった。

もちろん、嘘ではない。写真も文章も僕が知る限りの弁造さんだ。弁造さんを語る際、想像の手を広げることもあったが、それを剥ぎ取っていくとそこに立っているのは紛れもなく弁造さんだった。しかし、それはあくまで“僕の弁造さん”であって、“弁造さん自身の弁造さん”ではないことは明らかだった。

では、“弁造さんの弁造さん”とはどういうものだろうか。“僕の弁造さん”と“弁造さんの弁造さん”は違う存在なのだろうか。別人ではないが、その距離は実は遥かに遠いのではないか。何よりそもそも他者を表現することは可能なのだろうか。もし、不可能だったとしたらどうだろうか。でも、僕はすでに写真集と随筆集で弁造さんという他者を多くの人たちに手渡し、さらに弁造さんの魂にも等しいエスキースをこうして“僕の弁造さんのエスキース”としてしまっている。そして生まれたのが「弁造さんの生きることを奪っているのではないか」という感覚だった。

他者は文字通り自分ではない。目の前を歩き去ろうとする蟻を前にしたときの何気ない感覚でさえも他者のものは窺い知ることができない。何もかもが違う。それは絶対である。そのような他者を表現として成り立たせ、誰かに伝える。そんなことが可能なのだろうか。それは、当時の僕にはいくら考えても答えに近づくことができない問いでに思え、できることはこの問いを持ち続けるというぐらいだった。

東京を皮切りに全国巡回がはじまった「弁造さんのエスキース展」でも、この問いの重要さを思い知ることになった。来場いただいた方々が僕に投げかけてくれた質問の多くは、「弁造さん」や「エスキース」についてだった。当たり前といえば当たり前の質問だが、その質問を前に僕はこれまでと同じように「僕の弁造さん」を追加するようにして語り続けた。もちろん、会場で僕に求められて返答は「僕の弁造さん」で、きっと十分だっただろうし、そもそも「僕の弁造さん」を知りたかったという質問もあったと思う。しかし、繰り返しになるが「僕の弁造さん」を語れば語るほど、結果として「弁造さん自身の弁造さん」が遠くに行ってしまうかのような奇妙な感覚を味わったのだった。

巡回展は続けていくうちに開催会場も増え、合計すると九州から北海道まで15会場に達し、気が付けばはじまりから1年の月日が流れようとしていた。僕は各地の会場をひとつひとつめぐり、ハンマーを手にして釘を打ち、弁造さんのエスキースを飾り続けた。そして、たくさんの人たちと弁造さんの話をした。僕の面倒な問いは問いとして、その時間のひとつひとつは弁造さんのエスキースのようにひだまりにも似た温かさに包まれるもので胸がいっぱいになったのも一度や二度ではなかった。

展示の旅を繰り返すなかで僕のなかに生まれてくるものがった。それは「僕が奪った弁造さんの生きることを弁造さんに返そう」という曖昧でありながらも僕にとっては弁造さんのことを考えていくうえで無視することはできない切実な思いだった。

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