今週、この春に出版を予定している「庭とエスキース」の2回目の校正が出ることになっている。今回の校正ではプロの校正者の赤字も入ったもので、僕の方でもさらに精度の高い修正が求められる。
この校正を受け取る前にみすず書房の担当編集者のOさんからメールであることが伝えられた。それは「庭とエスキース」の核とも言える部分で、僕にとっての写真、そして僕が弁造さんを通じて知りたいと思い続けてきた”生きること”について、もっと正確に受け取りたいという率直なリクエストだった。
僕としては、まさにこのことを自分なりにはっきり掴んでおきたくて、今回の「庭とエスキース」を書くことで繰り返し考え続け、にじり寄るようにしてその核心へと近づこうとした。でも、僕はまだその途上にいて、辿り着けていないのだろう。あるいはもしかしたら、”わかった”と思ってしまっているのだろうか。この感覚は、弁造さんを見つめるうえで、あるときを境に封印したつもりだった。弁造さんという他者を簡単に”わかった”と思ってしまうことで、弁造さんが育んできた”弁造さんの生きること”を弁造さんから奪ってしまうのではないか。もしそうなったとき、僕がずっと知りたかったことをむしろ遠ざけてしまうことになるのだろうと思えたからだった。
今日はずっと、このことを頭のなかでぼんやりと考え続けていた。僕が写真で他者に近づけないかと思っていた20年も前のこと、あるいは、弁造さんの晩年のある時期を見つめ、そしてその死後の時間に思ったことについて。答えを出そうというのではない。手を伸ばすといえばいいだろうか。薄ぼんやりとした視界の先には何かがあって、きっとそこに触れたいという確信がある。そこに向かって手を伸ばし、指先の感覚を頼りに探ってみる。その触感、それを言葉にしてみること、想像を繰り返すこと、それをこれからも続けていくことで、知りたいと思ってきたことに近づけるのだろうか
こんなことを考えていると思う浮かんだのが「窓」についてだ。弁造さんの丸太小屋の窓、あの透明度を失ったビニールが貼られた、たったひとつの窓についてだ。
窓は僕に移ろいゆく季節を伝えてくれた。でもそれは普通の窓が伝えてくれる木々の姿や町並みなどではなかった。ヨレヨレのビニールを通して映し出される世界は、まるで何種類もの絵の具を溶かし混ぜたかのような不思議な色合いで、でも、その色彩の中心を作っているのは確かにその時その時の季節の表情だった。季節の色を抽象として描く窓。弁造さんの丸太小屋にひとつだけ付いていたのはそんな窓だった。
僕はこの窓のことを思い起こすたび、不思議な思いに捉われる。それは何かを見ようとすればするほど、見えなくなるという思いを深くするからだ。弁造さんの窓の向こう、そこに何があるのかは当然知っていた。あの木が立っていて、背の高い草が茂っていってと想像もできた。しかし、あの窓はそんな僕の先入観を軽くいなすかのように予想もしない光と陰で四角の切り抜きを彩った。しかもそれが時間とともに刻々と変化していった。それはとても美しく、僕はその美しさに翻弄された。そのとき、ついさっきまで頭のなかにあった、窓の向こうの情景はどこかに消えてしまい、ただ、窓の外には不思議な季節の色だけが広がっているとしか思えなくなってしまうのだった。でもそうやって、放り出されたかのような感覚を覚えながらも、僕はその不思議な季節の色合いを心の底から、ひとつの大切な世界として信じることができた。確かさを失い、おぼろげなものとなってしまいながらも、そこには強くしっかりと重い何かを感じることに対して迷うことはなった。そして、そのことを思い出すたびに、弁造さんの”生きること”を理解することの難しさとを知る反面、弁造さんの”生きること”の確かさをしっかりとこの胸に抱いていることに気づく。だからこそ、こうして考え続けることしかないということも思い知る。
先日、この窓について、僕の写真をずっと見てくれている大阪のMさんとメールでやりとりをさせてもらった。僕は弁造さんの窓が映し出す世界を心から信じることができる不思議さを伝えた。そこにMさんが返してくれたのが「たとえ物理的なものでなくとも、向こうの世界を信じことができる窓のような存在があれば、そこから生きることや今の生活について思いを巡らせる入り口になってくれると思います。そして、そういう存在に出会えることはとても幸せなことだと感じています。」という言葉だった。
Mさんの言葉を思い返し、弁造さんの生きることは僕にとっての、きっといつまでも見続けることができる小さな窓なんだと、そして、だから本当にこうして今を幸せに思えるんだと感じている。