他者を綴ることについて #庭とエスキース

「庭とエスキース」を書いている間、ずっと頭のなかにあったことがある。

弁造さんの”生きること”を綴るということは、全体どういうことなのだろうか、などという迷子にでもなったかのような問いだった。

僕にとって弁造さんは他者の一人だ。長い年月のなかでどれほど深く親みを抱くようになっても他者であることには違いない。僕は弁造さんと生きてきた時代も違えば、血縁でもない。どうしても繋がっていなければならない理由は何一つ存在しない。でも、その部分が今から20年前、弁造さんと出会った26歳の僕にとって重要だったのだ。弁造さんという生き方に魅力を覚えるなかで、絶対の他者であることを必要としていた。

当時の僕にとって、自己は鏡のようなもので世界を映し出しているものに過ぎないと考えていた。しかし、その一方で動かし難く執着せざるを得ない自己の存在にも気づいていた。そうした相反する感情のなかで、自分が見つめてみたいのは自己ではなく世界の側、つまり他者であると思った。底なしの自己を見つめ続けるのが怖かったのかもしれないし、学生時代に人並みに自分探しに首を突っ込んだりした経験から、自己を掘り下げるという行為とは異なるアプローチで自己を掘り下げてみたいと思っていたのかもしれない。

また、こうしたモヤモヤとした感情とは別に、自分ではない人生に触れてみたいと素朴な願望を抱いていた。自分というものを意識すればすれほど、他者という存在が立ち上がってくる。しかし、その他者の隅々までを知っているかと問われると首を横に振るしかない。他者はどこまで言っても他者であって、他者の人生を生きていて、それを僕は知ることができないこと。そんなことは当たり前で、それは生きるうえでの約束であると思っていたが、心のどこかでどうにかして他者の人生知ることができればとも考えていた。

そんなときに出会ったのが弁造さんだったのだ。遠く離れた他者としての弁造さん、その人生にカメラという道具を使えば近づけるのではないか。若く楽観的な僕はそんな風に考えたのだった。この楽観が成功したのかどうか、その結果は今でも迷いしかなく、だからこうして今夜も弁造さんのことを綴っているのだろうけれど、弁造さんに出会って以来ずっと他者の人生に近づくという行為を忘れたことだけはなかったと思う。

そして、2018年をほぼ1年間かけて弁造さんのことを言葉で綴りながら考えていたのは、他者の人生を綴ることとはどういうことなのだろうかという変わらぬ問いだった。

書いていて常に感じていたのは、僕は弁造さんの人生を何も知らないという事実だった。78歳の弁造さんと出会い、92歳で逝くまで、弁造さんからこれ以上聞くことがないと思うぐらい、たくさんの話を聞いたと思っていた。けれど、実際に書き進めていくと本当に何も知らないのだ。あれほど耳を傾け、ときには「その話はもう何度も聞きましたよ」なんて悪態をつくほど、繰り返し聞き続けてきたつもりだった。にもかかわず、僕は弁造さんのことを何も知らない。そのことに気づいた僕は愕然としてしまったのだ。弁造さんがいない今となっては遅すぎる気づきだったからだ。

でも、その一方で感じていたのが、それこそが、この届かない距離こそが他者という人生ではないかという思いだった。たとえ肉親であろうと、他者の生きることの細部を知ることはできないこと。それは個が個として存在する以上、絶対の約束なのだと。にもかかわらず弁造さんの生きることを来る日も来る日も書かかずにはいられないこと。この矛盾めいた行為はどう考えればいいのだろう。つまり、弁造さんがいなくなった今、僕が記憶のなかに弁造さんの生きることを増やしていくことは叶わないのだ。たとえば紙切れにすらすらと描かれたエスキースの他愛のないエピソードすら僕には知るよしもないのに、紙切れに描かれたかすれた線についてあれこれ考える不思議をどう説明すればいいのだろうか。

ただ、こういた僕の感情はきっと誰にもであることだろう。だからこそ、僕たちはこうして日々、他者の人生の物語である小説を読んだり、映画を見たりすることに尽きせぬ興味を抱き続けているのではないか。人間とは、もしかしたら永遠に自分ではない誰か、すれ違うことも叶わない誰かの人生を欲している生き物ではないだろうか。他者を綴るというどうにも捉え難い世界。そこにあるのは人が人として生きることの不思議さにどこかに結びついていきはしないだろうか。

今日もこうして弁造さんが描いたエスキースを見つめている。感情の上に浮かんでくるのは、弁造さんという他者への遠い星にも似た距離感と、まるで自分の昨日までの日々をのぞき見るような、どこか懐かしいような感覚だったりする。

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