写真の力#写真集制作

数日前から寝る前にひとつの作業をすることを習慣にしようとしている。

それは、弁造さんが写るネガを長期保存するためにビニール製のネガファイルから紙製のネガファイルへと移す作業だ。

弁造さんを本格的に撮り始めたのが1999年。すでに20年近い月日が流れた。その間、ネガは大切に保管してきたけれど、それでも徐々に劣化していることは今年の初めにまとめてプリントしたときに気がついた。以前、プリントした際の引き伸ばし機のフィルター数値を入れても再現性がまるでないのだ。もちろん、印画紙や現像液の変化や変更などもあるので同じ数値を入れたところで再現できるわけではないのだが、あまりにも異なる結果が出てしまったのだ。

その原因を探るため、様々な検証をしたところ、最終的にネガの退色というのが一番濃厚であると思われた。かつてあった時間を永遠に記録したかのように思われるネガも所詮は物質なのだ。時間の作用によって変化し劣化していくことは自然の摂理なのだ。とはいえ、僕にとって弁造さんの写真とは最も大切なものだ。弁造さんがいたおかげで僕は写真にのめり込み、人の生き方について考え、様々な気づきを得ることができた。写真集を作成するにあたって約1000枚のプリントを作成したが、再びネガに目を通すとまだまだ焼きたいカットはある。簡単にはネガを劣化させることはできないと、より保存性の高い紙製のネガファイルに移すことを考えたのだ。

また、1月24日から銀座ニコンサロンで始まる写真展「庭とエスキース」でオリジナルプリント付の写真集「弁造 Benzo」を発売するにあたり、買っていたいだいた方々にベストのプリントを届けたいと考えると、ネガの状態も万全であることが不可欠だ。そのためには、ネガを良い状態のまま保存していることが大切と、保管方法をより良くすることにしたのだ。

というわけで、毎晩、かつて撮ったネガをライトテーブルの明かりで眺めながら、せっせとネガを移し替えているのだが、どうしようもない思いに捉われて思わず手を止めてしまう瞬間がときどきある。

その感覚とは、弁造さんが「かつて、そこに、いた」という事実に気づく瞬間に訪れる。2012年4月に逝ってしまうまで、弁造さんはフィルムの中で強烈な存在感を放ちながら確かに存在しているのだ。そんなこと当たり前ではあるが、実際に、すでに存在しない人が目の前のフィルムの中で揺るぎなき生命を携えているという事実を前に僕は愕然とする。

そして、これこそ、写真の力なのだろうと思う。かつてあった、その存在に想像力の手がするすると伸び、抱き上げることが許される。写真というものはそれを可能にしてくれる。

この作用とその瞬間に立ち上がるリアリティーは絵でも小説でもないものなのだ。写真だけが、その存在の確かさに加え、被写体の生々しい温度までもを僕たちの胸に届けてくれる。

僕が写真に尽きせぬ魅力を感じるのは、こうした写真の力にいつも驚かされるからだと思う。

写真集「弁造 Benzo」を開いてくれた人たちの想像力が写真の力に気づいてくれると本当に嬉しい。

 

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