来年1月24日から銀座ニコンサロンでの個展「庭とエスキース」の作品制作を始めた。
今回の展示は写真集「弁造 Benzo」を下敷きにしながらもダイジェストではなく、ひとつの独立したテーマとして制作している。
被写体は、タイトルでわかるように弁造さんが作った「庭」と「エスキース」となっている。
弁造さんが逝って5年。僕の頭の片隅にはいつも弁造さんのことがあった。いや、逝ってしまったからということではなく、生前からずっと弁造さんのことは考え続けてきた。それはずっと変わらない。でも、逝ってしまってからの時間は、弁造さんを思うにしてもどこかぼんやりとしていた。今考えると、その理由は、長く弁造さんと付き合ってきたけれど、結局、弁造さんのことを僕はほとんど知らないという事実の前で戸惑っていたことにあると思う。
そう、弁造さんからその人生の出来事を無数に聞き、まるで僕自身が弁造さんにでもなったような気持ちにすらなったことがあるけれど、本当のところはどこまでいっても他者であり、果てのない海のように見知らぬ世界だったこと、そんなことに気づいたからだった。
でも、そこに気づいたとしても、本人がいない以上、その見知らぬ世界を埋めることは不可能なわけで、それがぼんやりと考えるという結果になってしまっていた。
もちろん、この状態をなんとかしたいと考え、いくつかの行動を起こした。そのひとつが弁造さんの遺品を手がかりに弁造さんの人生を追体験しようという試みだった。幸い、弁造さんは何十年も前の行動がわかる切符やメモの類をたくさん遺してくれた。それらを紐解いていくと僕の興味として残ったのが弁造さんの東京時代だった。
絵描きを志していた弁造さんは20代後半から40代になるまでの間、農閑期を利用して北海道から上京し、絵の勉強をしていた時期があった。そこで僕は、都内の片隅にウイークリーマンションを借りて、定期券や画学校のチラシなどを手掛かりに弁造さんの遠い日の足取りを追ったりした。
しかし、この行動は変化のめまぐるしい東京という街では雲をつかむような話で、いくつかも発見はあったものの、弁造さんのことを理解するという意味で大きな手応えを感じることはできなかった。
そんなことをしながらもやもやとしているうちに、僕の中で次第に大きくなってきたのが、弁造さんが半生をかけて作り続けた「庭」と、弁造さんの死後の遺品整理の際に出てきた紙切れや板に描かれた「エスキース」だった。
庭と絵は弁造さんにとってはなくてはならないもので、弁造さんの人生そのものでもあった。それであれば、弁造さんの人生を理解するためにこの二つを見つめるとどうなるだろうか。いつしか、僕は窓から外界をのぞくように、庭とエスキースを通して弁造さんのことを考えるようになった。
すると、これまで霧の向こうで見え隠れしていた弁造さんの人生が僕に足音を立てながら近寄ってきたかような感覚を持った。それは、庭とエスキースという二つが弁造さんを語り始めた瞬間でもあった。
庭とエスキース展に向けて暗室作業を開始した今日、暗室の外では小さくもしっかりとした密度を持った雪が1日を通して穏やかに降っていた。
いつかの年、弁造さんと一緒に雪かきをした時間を思い出した。
あの日、弁造さんは長年描き続けた「母子像」を完成させると、雪かきをするために「今日も雪はねをせんといかんな」と笑って外に出て行ったのだった。
雫石、雪の日