出会って間もない頃、弁造さんからずっと目標にしてきた言葉が4つあるとあると教えられた。
それが、「樹下座(じゅかざ)」「糞掃衣(ふんぞうえ)」「乞食(こつじき)」「陳捨薬(ちんきやく)」だった。この4つの言葉が記されたメモを手に弁造さんは、無知な僕のためにその内容を教えてくれた。それは、道元が記した出家の道のことで、木の下で住んで夜露をしのぎ、人が捨てた服を着て、托鉢にて飢えをしのぎ、牛の尿から作った薬で病を治すということだった。弁造さんは、「わしは今の自給自足生活を作っていこうとしたとき、この4つを根本に置いた暮らしをしようと思った」と語った。
もちろん、現実的には日々の暮らしのなかで弁造さんが牛の尿を腐らせて薬を作ることはなかったし、托鉢をして飢えをしのぐこともなかった。けれど貧しく厳しい北海道開拓の時代を生きてきた弁造さんはいつも質素であることを大切にし、そしてそれを誇りとしていた。とくに兄弟の借金を背負った経験から、金儲けの話には大げさなほど臆病で毛嫌いしている面もあった。おそらく、金銭で苦労した時代に、この4つの言葉にたどり着いたのではないかと思う。
弁造さんにとって、この4つの言葉はあくまで理想だったのだろうだろうが、唯一、「糞掃衣」だけは実践できていた。弁造さんと同世代の知り合いが亡くなると、その衣類が届けられるようになったからだ。弁造さんはそうした衣類を選り好みすることなくもらい、物置に大切に保管していた。
こうした服を着るものだから、サイズに合った服を着れることは多くはなかった。それでも弁造さんは「小さいのは大変じゃが、大きいのは一度着ると寝巻きのようなもので、やめれんくなるほどいいもんじゃ。」と笑って着続けていた。とくに弁造さんが好んで着ていたのが、オーバーサイズの茶色系のセーターで、年中同じものを着てるのかと見紛うほどによく似たセーターを着ていた。おそらく、弁造さんの同世代の老人は誰もが一枚や二枚、この手をセーターを持っていたのだろう。弁造さんはそうした一枚をボロボロになるまで着古すと、また物置から同じような一枚を選んで着ていたのだった。
弁造さんが亡くなった後、丸太小屋に入ると見慣れたセーターがハンガーにぶら下がっていた。伸びたり縮んだりして、くたびれきったセーターは、今まさに弁造さんが着ていたそのままの気配をまとっていた。
僕はそれを見ながら、「僕が出会って以来、これは何着目のセーターだろうか」と、とりとめのないことを考えたりした。