あたらしい野原#写真集制作

2012年4月に弁造さんが逝くことで、僕は大切な被写体を失うことになった。

92歳という年齢を考えると、そういう日が来ることを想像することは当時の僕の日常でもあった。そして、いつか迎えることになるその日のそれからについて、弁造さんがいなくなっても弁造さんが作った森や畑は訪ね続けようというのが僕の決め事だった。とはいえ、弁造さんが逝った先でどのように写真を撮ることができるのか、しっかりと想像することはできずにいた。

そして、その日は突然訪れた。弁造さんが逝ってしまったという喪失感は、感ではなく、しっかりと輪郭を伴ったかたちとしてあった。大切に思う人が目の前からいなくなる。それは感覚ではなく、現実なのだと思い知った。

僕は弁造さんとの約束を果たすような思いで、これまでと同じように青森から海峡を船で渡り、長い距離を走って北を目指し、弁造さんが暮らした土地に着くと、いなくなった世界を撮るようになった。

弁造さんの丸太小屋は遺言によってすぐに解体され、野原となった。そこにカメラを向け続けることにある種の疑問を覚えなかったかと問われると嘘になる。でも、ただの野原に変わってしまったそこには、しっかりと弁造さんという人生の質感が横たわっているような気もした。

それは撮ることでしか得られないものなのだろう。そう信じることで、あたらしく生まれた野原に向かってシャッターを押していた。

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