30度の京都から岩手に戻ってくると、大気はもう完全に秋の気配だった。
岩手がこの気温なら弁造さんが暮らした北海道は美しい紅葉に彩られているだろう。
僕は弁造さんの庭に立つメープルが鮮やかな黄と橙に色づく様子を想像した。
弁造さんは畑は3本並んだメープルの東側に広がっていた。河岸段丘の上に広がるこの土地は有機質が流出しやすく、弁造さんが入植した頃は痩せた土地だったという。そのため弁造さんは20年かけて大量の落ち葉や家畜の堆肥で土壌改良を行った。その甲斐あって僕が弁造さんに出会った頃には、肥沃な土地に生まれ変わっていたが、それでも弁造さんは土地を肥やす工夫を欠かすことはなかった。
弁造さんが僕に「いつかお前も畑をしたくなったときのために言うておこう」といって教えてくれたのは畑を8分割し、これらの畑を4枚をひと組みとして考え、それぞれで連作をしないように畑をまわしていくという方法だった。また、そのうち必ず1枚はえん麦を植えるなどして収穫はせず、緑肥とすることが不可欠だと言った。
そして、一組4枚の畑が4年で一巡したら、次は隣の4枚1組と植えるものをさらに交換するのだと、その仕組みが僕にもよくわかるよう図を描いてくれた。
「こうすることで同じ作物は8年に1回しかまわってこん。これができたら連作障害も防ぐことができるんじゃ」
北海道の秋は早く、秋の収穫はまだ夏の気配がする段階に行われた。だからなのか秋の畑にいくと、青々としているのはいつもえん麦ぐらいだった。
土が広がる畑で、さらさらと風になびくえん麦はまるで海原のようにも思えた。