春、新緑が芽吹く頃に訪れると、弁造さんといつも一緒に行くところが苗木屋さんだった。
ここで弁造さんはいつも果樹の苗木を数本買った。それらの苗木を庭に持ち帰り、春の暖かな風の中で植える弁造さんはとびきり嬉しそうだった。でも、不思議に思うこともあった。果樹を植える目的は、いつの日か実った果実を収穫することにあるのだろうけれど、弁造さんから実を収穫し食べることを楽しみにする言葉を聞いたことがなかった。
生きる糧を生み出す”場所”を育むことに弁造さんの喜びがあり、それは誰かのためであって、自分自身は受け取る者ではないと思っていたのだろうか。
弁造さんは、「明日、地球が滅びようとも、今日、私はりんごの木を植える」と綴ったルターの言葉を、春のふくよかな土の香りを含んだ風に吹かれながら、鼻歌を歌いながら行える人だったような気がする。
こう書くと、まるで弁造さんが大変な偉人のようだ。でも、目の前に弁造さんがいたらルター言葉を得意のユーモアで笑い飛ばしてくれるだろう。