漠然と携えていた生きることへの問い。生きている意味や役割を問うのではなく、日々を生きていること、昨日と今日、そして明日という時間のつながりのなかで存在しているということ。そこに何か、見えない何かがあるとしたら、何があるのだろうか。
言葉以前の状態からずっと、そんな問いと共に生きてきた。そんなとき、弁造さんに出会い、問いが導き出すものに近づけるかと思いカメラを向けることになった。
以来、弁造さんと一緒にずっと探し続けた。弁造さんが逝って、今度は写真の中、弁造さんの《かつて=あった=日々》を見つめ、探し物を続けている。