完成した束見本に、あらかじめ考えていたレイアウトデザインを当て込んでみた。
束見本が届くまで、ずっと心配だったのはのどの開き。ページ数が352ページで縦に長い判型のため、どうしてものどが開きにくくなるのではと想定していた。最近はコデックス装丁と呼ばれている背のない造本方法があって、これならパカっと割ったように開くのだが、先入観からか、背がなく小口が見えたままの雰囲気はどうも心もとない。そこで、最大限のどが開くように糸かがりとした。また、めくりの良い、柔らかめの紙を使うことでも開きやすさを考慮した。
それでもやはり、どのくらい開くのかが心配だったのだが、こうして写真を配してみると、開きやすさという部分では、想像以上に開いてくれた。もちろん、本の厚さからどうしても湾曲するのだが許容範囲だと感じた。
写真を配したページを何度も何度もめくり、本を開く行為を想像してみる。これだけの厚さの本の中のすべてが弁造さんの写真で埋まっているということには、ちょっとくどすぎたかなあなんて不安も生じてくる。
しかし、弁造さんの写真集を編むにあたり、その人生を表現するにあたり、重要なのは、繰り返しの日々だと思ってきた。
誰の「人生」であっても、それを貫くものは、不条理とアンチクライマックスだとずっと感じてきた。弁造さんが逝ってしまった今、やはりその人生は、不条理のなかにあり、その最期もアンチクライマックスだった。ただ、今の僕は、人生を貫くこの二つの要素が悪いものではないと思っている。良くも悪くもなく、人生の背骨にあるのはそういうものだと思っているだけだ。
そして、こうした人生の背骨を肉付けするのは、「日々」という時間だ。ある意味、退屈でほとんど意味を為さないような時間の積み重ねだ。でも、こうした時間こそに「人生」の表情があると信じている。
弁造さんの写真集を編むあたり、僕は、この日々と日々の積み重ね、日々と日々のあわいのような時間を大切にしたいと思った。
それを大切に表現するには、たくさんのページが必要となった。