今回の写真集「Benzo 弁造」は、井上弁造さんの人生がテーマになっている。そういう意味ではドキュメンタリー作品と呼ぶことができるのだが、自分の中ではドキュメンタリーと呼ぶには少し違っているように思う。
弁造さんが逝き、5年たって新たにその人生を写真という行為で作っていくことは、弁造さんが生きた時間の再現ではなく、かつてあった”現実”を新たな物語として編み直すといった方が近いかもしれない。でも、だからといって虚構でもない。
”かつてあった現実”は物語の流れに溶け込むことによって、一度、現実から少し離れるが、そうすることで、その”かつてあった現実”の本質やリアリティをむしろ増していく。弁造さんの写真が目指すべきところは、そういうものだと感じる。
そういえば大江健三郎が、こうした物語の作用、あるいは物語の力というべき効果を「異化」と呼んでいた。
「弁造さんの生きること」は「写真」に取り込まれ、異化され、本質に近づけているのだろうか。