弁造さんが逝って5年が過ぎ、少し不思議な感覚が生まれようとしている。
それは、弁造さんが遺したものについてだ。いわゆる財産と呼ばれるものを何ひとつ持たない人だったが、弁造さんが逝った後には、50年かけて木々を育てた庭と、たくさんのエスキースが遺された。
生前もその存在はあったわけだが、それらはあくまで弁造さんという主人公の脇役的存在だった。しかし、弁造さんがいなくなって月日が流れていくと、僕の中で庭とエスキースの存在が次第に大きくなっていった。今では僕の中での弁造さんの記憶よりも庭やエスキースを前にした方が、弁造さんという人間の生々しさを伝えてくるような気がする。その感覚とは、少しばかり不思議で、それでいてとても魅力的な物語に引き込まれるような遠い昔の読書体験に似ているような気もする。
記憶は薄れ、モノが語り始める。そのとき写真がどこに立っているのだろうかと、最近はよく考えている。