小さな紙の裏に #庭とエスキース

みすず書房で編集担当のOさんとの打ち合わせを終えて岩手に帰ってきた僕は、仕事場の棚にある大きなストレージボックスを開けた。無酸性のボール紙でしっかりと作られた16×20インチのストレージボックスは、自分の写真作品を納めておくためにまとめて買っておいたものだ。でも、買ってしばらくは使うことがなかった。

ストレージボックスに入れるのは将来にわたって残しておきたいと思える作品だ。プリントの仕上げはもうこれが最高だと思えるもの。そういうプリントをこの箱に入れて保存しようと購入した。しかし、なかなかストレージボックスにプリントを入れることはできなかった。プリントを作っていないわけではなかったがこれでもう完成だと思うことができず、焼き上げたプリントは相変わらず空になった印画紙の箱に入れてしまい込んでいた。

これは自分でも悪い癖だと思うが、僕はどうもプリントを完成させることができない。ネガそれ自体には色もグラデーションも無限の可能性を秘めているとしても、きっと揺らぐことのない着地点があるはずだと、暗室の中で引き伸ばし機を調整をおこなうたびに思う。しかし、撮影時の条件ではなく記憶のなかにある世界を優先してしまうからだろうか。どうしてもネガのなかに隠されている印象の世界に入り込んでしまう。ただ、自分自身の写真はそれでもいいと思っている。”写真”はカメラという暗箱に取り込まれた世界の断片ではあるが、僕にとって記憶のプールでもある。現実が写真になった途端、記憶という曖昧で不思議な世界の住人となって静かに呼吸を始めるのだ。

だから、記憶に手を伸ばすようにプリントの佇まいを決めていくことは僕にとってごく自然なことだ。ただ、問題はその手を伸ばす記憶の表情がいつも変わることだ。過去という決定した出来事を貯め込みながらも記憶は新しい衣服をまとうように表情を変えていく。その結果、同じひとつのネガであっても焼くたびにそのニュアンスが変化していく。簡単な話、気分でプリントが変わっていく。そうした不完全な制作スタイルゆえ、完成したプリントを作ることができず、せっかく買ったストレージボックスを使うことができなかったのだ。

今、何の意図もなく「完成したプリントを作ることができず」と書いて思わず苦笑してしまう自分がいる。弁造さんの絵を語る際、僕は枕詞として「完成しない」をいつも使う。「完成しない絵を描き続ける」。言葉としては矛盾に満ちているが、弁造さんの絵を表す言葉はほかに見当たらない。でも、よくよく考えてみると、僕の写真もまたいつまでたっても完成しないものなのかもしれない。暗室に入るたび、ああでもない、こうでもないとあやふやな記憶を頼りに、色の中に潜む気配や影に帯びる湿度を探してしまっている。

でも、弁造さんのエスキースをこの箱に入れることは迷いなかった。チラシの裏やらヨーグルトのカバーの裏やらレシートの裏やら、とにかく何かの紙の裏に描かれている「エスキース」のことを「完成した作品」と呼ぶと弁造さんは怒ってしまうのかもしれないが、完成しない絵を描き続ける本人がもういないのだ。何より、僕にとってはこのエスキースこそが弁造さんの”絵”だとずっと感じてきた。ふと思い立って描いたのだろうか、何人もの女性の顔ばかりが描かれた紙、あるいは頭の中にあるぼんやりとしたイメージをなぞるように定まらない輪郭で描かれた母と娘など、黄ばんだ紙の上に走る線たちは弁造さんの絵に向かうときの息遣いをその熱を保ったまま伝えてくれるからだ。

東京から帰ってきた僕がエスキースの詰まったストレージボックスを開けた理由。それは、「庭とエスキース」の出版後に何かイベント的なことできたらいいですねというOさんと交わした何気ない会話が発端となっていた。以前から本ができたらトークショーとか何かをしながら読んでみたいと思う人に手渡す機会をつくってみたいという話はしていたけれど、そのとき、口から出まかせにも近い感じで出てきたのが、本を紹介しつつ弁造さんのエスキースで個展ができないかというアイデアだった。そして、それを聞いたOさんも一気に盛り上がり、展開に向けてのいくつものアイデアを提案してくれたのだった。

今の段階では、果たして弁造さんの「エスキース」展が実現するかどうかわからない。でも、この話が出た時にふと巡り合わせの輪が結ばれ円を描いたかのような不思議な感情を抱いた。

弁造さんが若い頃、絵を学ぶためや出稼ぎで上京した際に銀座の画廊を巡ったという話を何度も聞いてきた。当時の弁造さんにとって東京で個展を開くのはまさに夢で、でもいつか実現してやるぞと強く願っていたことだった。本当かどうかわからないけれど、懇意となった画廊主からは「ある程度の枚数の絵を描いたら持ってきなさい」と言われたこともあったという。でも結局、弁造さんは画廊に絵を持ち込まなかったどころか、たった一度の個展を開催することもなくその生涯を終えた。

そんな弁造さんの人生を知る僕にとって、弁造さんの「エスキース」展が実現するとしたら、まさに不思議な巡り合わせと呼ぶことしかできないだろう。岩手から帰ってきた僕は、そのときに主人公となるべきエスキースの実感を得たくて、久しぶりにストレージボックスを開いたのだった。

弁造さんのエスキースを見ているときの感覚を言葉にするのはとても難しい。茶色に変色した紙の上の鉛筆の線。そこから何かを読み取ろうとしてもそれが僕の恣意の範疇を出ないことはわかっている。しかし、僕は想像せずにはいられない。あの黄色いセーターを着た弁造さんが食事の合間に急に箸を持つ手を止めて、近くにあった紙に手を伸ばし、いくつかの線を描いてみて、そこで手を止め、しばし考えたのちにスピードをあげて線を重ねていくその手の動きを思い描いてしまう。何より、この弁造さんの日常は僕のなかで堆積していく。ストレージボックスの中に積み重ねられたエスキースと同じように、紙切れを手に鉛筆を動かす弁造さんの姿が幾重も重なっていくのだ。

「庭とエスキース」が無事に完成し、その流れに乗って弁造さんの「エスキース展」を開催できたとしたら弁造さんはどう言うだろうか。

「まさかあんたに落書きなんぞを持ち出されて恥をかかされるとは思ってもなかったわい」と憮然とするのだろうか。それとも「やっぱり絵描きは死んでから評価されるのが本当の絵描きじゃ」と満足げな表情で笑うのだろうか。

今の僕は、弁造さんのエスキースをたくさんの人に見てもらい、エスキースとともにそれが描かれた時間と描かずにはいれなかった弁造さんの生きること感じて欲しいと願っている。

 

 

 

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