不整合さと不条理さと#写真集制作

写真集がご注文いただいた方々に届き始めて、ご感想も寄せていただくようになった。

その中でひとつひっかかっているのが、敬愛する写真家の小池英文さんの言葉だ。

小池さんと言えば、昨年、瀬戸内の島に流れる時間とそこに暮らす家族の姿をまとめた「瀬戸内家族」という写真展を開催し、同名の写真展も上梓されている。僕の書棚に収められているこの写真集を開くと、その場の空気のようになって抑制された語り口で紡がれる瀬戸内の風土と人の暮らしが静かに心に迫ってくる。海の青さだろうか、それとも瀬戸内独自の光なのだろうか。見ているこちらまで穏やかで柔らかな瀬戸内の幸福感に包まれるような錯覚に覚える。

そんな小池さんから届けられたメールがこうしたものだった。

「そんなわかった風の言葉ではなく、逆にだからこそ、きっと写真によって何か物語が立ちあがってくるのかもしれない。整然と意味化されることを拒む人間の矛盾や純粋さや滑稽さが立ちあがってくるのかもしれない。そしてもしかしたら、人間が内包するそんな不整合な疑問と不条理さが、撮り手を長い旅に導いたのかもしれない。

実はこのコメントをいただいたのは、小池さんに「弁造 Benzo」をご覧いただく前のこと。よって読後の感想ではないので小池さんにとっては挨拶程度の軽い感じの言葉だったのだろうけど、僕は「人間が内包する不整合な時間と不条理さ」という言葉の連なりに引き寄せられた。そして、数日間、頭の片隅でこの言葉をぼんやりと考えていた。

2016年の12月から17年の1月にかけて、暗室に入り、最終的には2000枚にも及ぶ印画紙を使って、弁造さんを訪ね始めた1999年から2017年までのフィルムからプリントを制作したことはこのブログでも何度も書いた。そして、そのプリントの山を前にして編集作業に入っていったわけだが、その作業をずっと続けていてたどり着いたのは、ひとつのイメージだった。

そのイメージについては「生きることの質感のようなもの」とこのブログで何度も綴った。

92歳の弁造さんの人生を振り返ってみると、決して平坦ではなかった。随分と自由に生きたと思うけれど、弁造さんが願ったことの多くが叶ったとは言えないだろう。

でも、そんなことは当然のことだ。誰もが思い通りの人生など歩めるはずもない。弁造さんが絵描きを目指したくても様々な理由から一時期は筆を折らなくてはいけなかったことや、家族を持てなかったことなどは、かたちこそ違うだけで誰の人生にも当てはまる”人生の出来事”だろう。弁造さんもそんなことは承知で、晩年に残りの人生の話をすると決まって「いろいろあったけど、あー楽しい人生だったなあ」と自らに言い聞かせるようにして、何度もつぶやいていた。

でも、そのつぶやきを飲み込めないこともときにはあったのだろう。あるとき、弁造さんは人生論を語るうちに熱くなって、「あんたから見て、わしの人生は幸福だと思うか?」と激しい形相で迫ったこともあった。それは、弁造さんとの長い付き合いのなかで初めて見るような表情で、僕は圧倒されて何も答えることができなかった。と同時に、すべてを飲み込み、割り切り、前だけを生きていけるほど人間が簡単ではないということを知った。

弁造さんとのこうしたやりとりの数々を反芻し、ネガを見つめ、そこから生まれたプリントを見つめ、たどり着いた場所。それが「生きることの質感のようなもの」だった。

だれの人生にも多くの出来事が待っている。良いことも悪いことも。自分自身で解決できること、自分自身に原因があることだけでは済まされない。時代や社会状況によっても人生は翻弄されていく。そうなったとき、僕たちは何を見つめればいいのだろう。弁造さんが自分が作った原因ではない出来事をきっかけに絵筆を持つ時間を奪われたことをどのように受け止めていいのだろう。

僕の中に生まれたその答えが「質感」だった。ものは皆それぞれが質感を持っている。ざらざらしていたり、すべすべしていたり、重かったり、軽かったり、様々だ。そして、その質感には優劣はない。それぞれが、ただ、そうした質感をもっているだけだ。弁造さんのことを考えていたある日、生きることもそうではないだろうかと、ふと思った。思いもよらぬ様々な出来事によって絡め取られていく人生を前にしたとき、僕たちができることは”その人生に置ける質感”を感じ、見つめることしかできないのではなかろうかと思った。

そして、今回、小池さんのメールを読んだとき、僕が思う「質感」とは、小池さんが書いてくれた「不整合さ」や「不条理さ」に言い換えれるのではないかと感じた。

弁造さんの人生の終焉は、実は不条理以外何ものでもなかった。弁造さんは92歳の人生を、不条理そのものによって奪われた。その不条理さがなんであったのか、ディティールを話すことは弁造さんの人生を語ることとは別のことだと思うので書くことはないだろうが、僕には全く予想ができない最期だった。

でも、その不条理さが生み出した弁造さんの死によって、弁造さんが変わるものではなかった。そんな不条理さもまた弁造さんの人生が孕んでいたものだと、今の僕は思う。と同時にその不条理さの中にあっても、弁造さんの人生は、確かに弁造さんのものであったと。

おそらく僕の人生も不条理さと不整合さをたっぷりと孕みながら、どこをめざすとも知れずゴロゴロゴロと転がっているに違いない。そんな行き先不明の時のなかで弁造さんと出会えたこと。それは間違いなく大きな幸福だったと感じている。

早いもので銀座ニコンサロンでの展示まであと2週間ほどとなった。

写真集も多くの人たちに支えられて全国に飛び立とうとしている。

会場にいらしていただいた方々と弁造さんのことを濃密に考える1週間がもうすぐやってくる。

※奥山淳志写真集「弁造 Benzo」のご注文はこちらのサイトにていただいております。ご覧いただけますと幸いです。

奥山淳志写真集「弁造 Benzo」について

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です