Benzo camera #写真集制作

弁造さんに出会ったのが僕がまだ25歳の頃でもう20年も前のことになる。

当然、この20年間で弁造さんは変わっていった。でも、変わったといといえば、当時78歳だった弁造さんというよりは、20代半ばだった僕自身なのかもしれない。きっと、僕は自分自身や自分自身を取り巻く環境の変化に絡め取られながら撮影を続けてきたのだろう。

そういう意味では、弁造さんを撮り続けた写真の数々は自分自身の視点の記録でもあるように感じる。

そして、その視点を支えてくれたのが、Rolleiflexというドイツ生まれの二眼レフだ。なぜ、このカメラを使おうと思ったのか、今では定かではないけれど、僕は弁造さんの撮影をする1年ほど前にこのカメラをアメリカの中古カメラ屋から購入し、初めての撮影に携えていった。所有していたRolleiflexは、当初は、2.8Fという機種だけだったが、その後、3.5Fが加わり、さらにWide Rolleiと呼ばれる広角レンズ付きの機種も加わって3台体制になった。ただ、実際に使ったのは2.8Fと3.5Fばかりで、不思議と肌に合わなかったWide Rolleiは登場の機会も少なく、後年売り払われてしまうことになった。オーバーホールをしたり、コーティングを新しくしてもらったりと、いろいろと手をかけたカメラだったけれど、55mmという広角の焦点距離が弁造さんと僕の距離感には合わなかった。

弁造さんを撮り始めてから今日までの約20年間を振り返ってみると、カメラ機材の変化はまさに激動と呼べるものだった。僕も含め、世の職業カメラマンたちは皆、撮影済みフィルムをライトボックの上に並べ、ダーマトで丸印を記していくどこかのんびりとしたアナログの時代から追い出され、デジタルカメラの猛烈な技術進歩を追いかけるようにして撮影するスタイルになった。

僕自身、この20年で何台のカメラを購入し、何台のカメラを処分したか、もう数えることができない。しかも近年になってみると動画撮影にも手を出しているので、使用するカメラの変遷は慌ただしいというほかない。カメラに愛着など持っていられないというのが今の職業カメラマンの心境だろう。

しかも、こうした雑多な機材状態に撮影データを編集するPCや、キャリブレーションモニターなどの周辺機器まで加わるのだからもう手に負えない。記録メディアの問題、CPUの処理速度の速い遅いなど、摩訶不思議としか言いようがない世界に日々、取り込まれてしまっている。

そんな状態にあっても僕のなかで変えることができなかったことが、弁造さんを撮るということと、弁造さんを撮るカメラだった。

このRolleiflexでしか撮れない写真があるとか、搭載しているレンズのクセノタールやプラナーの描写が最高だとか、そんなことを強く思ったことはないけれど、弁造さんを訪ね、弁造さんと庭を歩き、小さな丸太小屋の中で膝を抱えて、弁造さんの遠い時代の昔話に耳を傾ける。そんな時間のなかで忘れ物を拾い集めるようにしてポツリポツリと撮っていく写真は、縦横のフレーミングもなく、広角、望遠感といったパースペクティブの表現も不得手なこの二つ目のカメラが最も適していたように思える。

しかも、撮れる枚数はフィルム1本につき12枚。おかげで何度、この瞬間の弁造さんを撮りたいと思った瞬間を取り逃がしただろう。最終的には、「撮りたいのに撮れない瞬間が写真だ」などと開き直るほどで、弁造さんの写真はこのRolleiflexで「できること」に縛られてきたと言っても過言ではない。それでも、シンプルに撮影することを強要するこのカメラを使うことで、常に自分自身の視点と視座を意識することができたと思う。

弁造さんが逝った以降も、同じこのカメラを携えて撮影を続けている。当然、弁造さんがいなくなった世界にレンズを向けるしかないのだが、このRolleiflexを構えると、弁造さんがスクリーンの向こうに立っているような錯覚を覚えることもある。

そういえば、弁造さんは、「今の時代に、年代物の変なカメラを持ってる奴がときどき来るんじゃ。それも遠くから海を越えて、もう10年以上もだぞ。信じられんほど変わった奴じゃ」と言って、僕のことをよく笑い者にしていた。

 

 

 

 

 

 

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