弁造さんの遺品のなかに1日で3度血圧を測った記録表があった。チラシの裏側を使って丁寧に書き込まれていたそれは、僕も何度も目にしたことがあるものだった。高血圧の持病を持っていた弁造さんは、何年にも渡って血圧の記録をつけていて、薬の効き具合や体調変化による変動などを調べていた。その熱心さは、まるで自身の身体を実験台にしているかのような勢いで、話の途中であっても「あ、血圧測らんといかん」などといっては、セーターを脱いで腕まくりするのだった。
でも気にしていたのは血圧だけではなかった。総じて健康には気を使っていて、看護師から聞いたとかいう身体に良い食べ物を小さな文字で紙いっぱいに描いて、それをどうやって日々の食事で摂っていくかを算段したり、それが栽培できるものであれば来年植える作物のラインナップに加えてみたりと日々、思考錯誤をしていた。
とはいえ、弁造さんは長生きをしたいと言っていたわけではなかった。「生きるのは楽しい」と笑いつつも、ときおり「年をとって身体も動かんようになって、楽しいこともない。でも、だからといって死ぬわけにはいかんだろう」と本音を漏らすこともあった。
それでも弁造さんが健康的に生きることを諦めなかったのは、「死ぬときにうろたえないため」という弁造さん流の生きることへの矜持があったからだと思う。自分の身体をありようを見つめ、強く生きて、しっかりと死ぬ。そうあるために弁造さんは日に3度血圧を測り、身体に良い食べ物を選んでいた。
当時の僕は、そんな弁造さんを見て、死ぬためにしっかり生きるというのはどういうことなんだろうといつも考えていた。