日々について#写真集制作

再プリントをしつつ、最終のセレクト作業を続けている。

何度、連続するイメージを確かめ、何度シャッフルし、何度元どおりに並べ替え、といった作業を行っただろう。

その作業のなかで背骨となってきたのは、弁造さんの連続する日々と繰り返しだ。生きることの本質は、繰り返しの日々の中で、昨日得ることができなかった気づきや出会いを迎えいれることだと弁造さんの写真を見ていて強く感じる。それはたとえば、木々の成長を見つめるような小さな変化なのかもしれないが、弁造さんからもらった数十センチのメープルが気がつけば家の高さを越えていくよう大きな世界を生み出していくはじまりだと思う。

でも、一方で日々は生み出すものだけではない。弁造さんの日々は、何者も抗うことができない”老い”に貫かれた時間でもあった。老いを深めるなかで、弁造さんは死の準備を続けていた。

「わしが考える死は、ゼロの世界だ。何もない。わしがいたこともきれいになくなってしまっていいんじゃ」。最晩年の弁造さんはよくそんなことを言っていた。

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