北海道東川町で8月3日より開催となる東川町国際フォトフェスティバルの設営が始まった。
今回、第35回写真の町 東川賞の受賞作品展。写真集『弁造 Benzo』(私家版)と写真展「庭とエスキース」(ニコンサロン)により特別作家賞というものをいただくことになったのだが、弁造さんの日々を編んだ、たった300冊の写真集が始まりだったと思うと、とても感慨深い。何より、弁造さんの故郷である北海道の地で、弁造さんの生きることを観ていただく機会が実現することが嬉しく、また、何かの巡り合わせのような気もしている。
弁造さんのエスキースを展示する「弁造さんのエスキース展」は現在全国巡回中で、先日、福岡での展示が終わったばかり。次の展示は名古屋で8月31日からで、約1ヶ月間、エスキースたちにはお休みいただくが、それまでの間を埋めるようにして、ここ東川賞受賞展で弁造さんという存在が写真で立ち上がる。
こうして、僕の日々は今も弁造さんとともにあるわけだが、最近感じるのは、僕のなかので弁造さんという存在の変化についてだ。
弁造さんと出会った1998年から逝ってしまう2012年まで、それこそ、ただただ繰り返し弁造さんのことを考え続けていた。それは今も変わることがなく、こうしてエスキース展や写真展を断続的に続けているからか、さらに弁造さんという距離はより近くなったとさえ思う。弁造さん本人はもう7年も前にいなくなっているのに。
「弁造さんがいなくなってからしばらく呆然とした日々が続いた。逝ってしまった人と写真でどう関わっていくか、わからなかったからだ」
これは弁造さんが逝ってしまってから、庭とエスキースからその存在を考えていこうとしたときに制作し、写真展を行なった「庭とエスキース」という写真群につけたキャプションだ。当時の僕の胸にあったのは、まさにこの言葉通りで、いなくなった弁造さんという存在を前に佇むしかなかった。
当然のことではあるけれど写真は存在があって初めて成立する。弁造さんが逝ってしまうまでは、その存在に対してカメラを向けるだけでよかった。それで写った。しかし、弁造さんがいなくなってしまえば、その存在はなくなってしまった。いや、存在は僕の記憶という限定された世界には確かに在るのだ。それはガラス一枚隔てて、その向こうに在る人たち、世界を眺める感じに近い。ガラスの向こう、目に映る世界は確かに存在している。しかし、自分はガラスのこちら側にいて、向こうの世界に通じること、触れることは許されない。生と死を分かつのは、このガラス一枚程度なのかもしれないけれど、その断絶は強固で向こう側にいくときには多くのものを捨て去っていかなくはならない。
そして何より、肉眼という恣意的な視覚ではガラスの向こうは見えるけれど、カメラは途端に力を失う。カメラではガラスの向こうで立っている弁造さんを写すことはできないのだ。
逝ってしまった弁造さんを前にした僕の前に横たわっているのはそんな感覚であり、もう弁造さんを撮ることは叶わないという事実だった。
でも、それが昨年あたりから変わってきたのだ。弁造さんとの日々を写真で編み、記憶の海を泳いだり潜ったり、ときには小舟に乗って横断したりして弁造さんとの日々を言葉で綴り、それだけでは飽き足らず弁造さんが描いたエスキースを持ち出して、木目が美しく並んだ額に一枚一枚収めて、弁造さんはもちろん僕も知らない町に持って行って、多くの人に「かつて北海道の片隅に弁造さんという変わったおじいさんがいました。美しい庭を育み、いつだって完成しない絵を描いていました。そんな人の絵がこれです」と見せて周っているうちに、僕のなかに在る弁造さんの存在というものが異なる表情を見せるようになってきたのだ。
その兆しは弁造さんの命日というかたちで僕に知らせた。
弁造さんは4月終わり、春を待つ日に逝ってしまったのだが僕はその日を忘れてしまっていたのだ。これまでそんなことはなく、毎年その日がくれば、盛大に弔ったりしないけれど、「ああ、弁造さんが逝った日が今年も訪れたんだ」と、遺言によって無理やり押し付けられた感もないわけでもない遺骨の一部が入った桐の小箱を開けて空気を入れ替えたりしていた。
でも、今年は弁造さんの命日に気づいたときにはすでに数日も経たあとだった。もちろん、一瞬焦った。ずっと弁造さんの”生きること”を考え続けているとあちこちで言ったり書いたりしているのにかかわらず、弁造さんの逝ってしまった日を忘れるなんてと。悔いという感じとは少し違うけれど、なんだか申し訳ないような気もした。
ただ、それで初めて気づいたのだ。弁造さんが僕の中でもう生きている、だから弁造さんが逝ってしまったことを忘れているのだと。なんだか昭和の歌謡曲のような甘い言い方にしかならないのだけれど、そうとしか言いようがないのだ。
これは自分でも呆れてしまうのだが、本当に毎日、弁造さんのことを考えている。いや考えるだけじゃない。たぶん写真集を編み始めた2年ほど前から「弁造」という文字を書くこと、言葉として発することを1日も欠かしたことはない。僕の日々にずっと弁造さんという存在が関わっていて、それを僕も本当はやっかいなものかもしれないけれど、当たり前のこととして捉えている。
そして、そんなとき思うのが親でも兄弟でもない、弁造さんという他者がその存在を失った後であっても、こうやって一緒に生きていくことができるんだという驚きと奇妙さを半分にした感覚だ。少し面倒くさいけれど、この状態で僕は妙に満たされ、不思議な豊かさのなかに浸ることができる。これがかつての僕が願った「写真を通じて他者に近づく」ということへの答えとは言わないけれど、その大きな問いを解いていくひとつのヒントではないかとかすかな期待もある。
それにしても、逝ってしまって7年にもなろうというのに、こうして僕に多くの気づきをもたらし、しかも今は写真や言葉、エスキースを通じて多くの人にもたくさんの問いかけを生み出そうしている弁造さんという存在の不思議な力はどうだろう。
小さな小屋に暮らし、いつも完成しない絵を描き、糧を生む美しい庭を育て、そしてプイッと逝ってしまった弁造さん。この小さな存在の求心力は時を経るにしたがって強さを増していくようだ。もしかして、この力こそが”表現”と呼ぶべきものなのだろうか。弁造さんの作り続けた庭やエスキースが僕の衝き動かしているのだから。
東川文化ギャラリーでの東川賞の受賞展は8月3日から始まる。
弁造さんの生きることはスポットライトに照らされ、眩しい表情を浮かべながらも再び饒舌に語り出すだろう。
全国から駆けつけてきたくれた写真学生のボランティア「フォトフレンズ」の働きで展示が立ち上がっていく。