「庭とエスキース」(みすず書房)4月16日出版決定

みすず書房から出版される『庭とエスキース』の発売予定日が決まった。4月16日、約1ヶ月後だ。

ゲラの精査を含め、まだやるべきことはたくさんあるけれど、ひとまず世に送り出す日が決まったということでホッとして、やっぱり嬉しい。いよいよなんだと感慨深い思いに抱かれる。

自分の書いた本が世にでるということはもちろんとても誇らしいこと(反面、気恥ずかしい)なのだけど、僕の胸を占めるのはそうしたことだけでもない。

こうして僕が弁造さんが逝って6年もたってから弁造さんのことだけを綴った本を世に送り出す。上手く言葉が見当たらないのだけれど、こんなことが起こるんだなあと率直に「縁」というものの不思議さを思う。

そして、この不思議さは、弁造さんと出会った25歳の僕へと還っていく。当時の僕は、”写真で人間に近づきたい”という思いで弁造さんが暮らす丸太小屋に通うようになった。それからの日々はこれまでも何度も書いてきたように、ただただカメラを携えて弁造を訪ね、話を聞き、写真を撮らせてもらうという日々を続けるだけだった。

ただ、この日々にも終わりが来る。出会ってから14年後に弁造さんは逝ってしまい、僕は弁造さんと過ごした日々で何を得ることができたのかわからないまま、弁造さんの逝ったあとの世界にカメラを向けるようになった。弁造さんが逝ってしまった後の日々は僕にとってふわふわと寄る辺ないもので、乱暴な言葉を使ってしまうと”つまんないもの”だった。とはいえ、いなくなってしまった存在に対して何かをできることがあるはずもなく、ただ、弁造さんのいなくなった庭にカメラを向けるしかなかった。それでもようやく立ち上がるようにして、昨年1月に私家版のただただ厚いだけの写真集をたった300部だけ作って、少しだけ弁造さんのことを知ってもらう機会を作った。

ところがこの写真集がきっかけとなって、今度はあろうことか記憶を頼りに弁造さんとの日々を綴り、一冊にまとめるという自分でも全く予期せぬ出来事の中心に立つことになった。書き進める過程は決して楽なものではなかったけれど、弁造さんとの記憶の深みを漂う日々は僕にとって安らかでいて、胸からあふれるものを止めることができない、これまでに味わったことがない時間だった。

この時間を経て、いよいよ着地しようとしている今、ある種の達成感を感じないわけではないのだが、その一方でまた不思議な感覚が強くなってきている。それは、弁造さんが描いた絵、描き続けたエスキースを多くの人に見てもらう機会を作らなければならないのではないかという、今までにはあまりに感じたことがない思いだ。

弁造さんがなぜ、絵を描くか。生前に繰り返し聞き続けたことであるが、弁造さんは多くの語らなかった。「絵が好きだから、描かなくちゃいけない」と繰り返し、完成しない絵ばかりを描き続けた。弁造さんの絵のテーマは僕が出会った当初から女性ばかりで、それも南国の樹の下で午睡をする裸婦像といった弁造さんの生活からは遠くかけ離れたものばかりだった。そんな絵を前にした僕は困惑しかなく、理解できないまま見つめるしかなかった。

もちろん、弁造さんにとって僕が弁造さんの絵を理解しているかどうかなんて全く関係がない。弁造さんはいつもいつも完成しない女性の絵ばかりを描き続け、そして、それらを全部残して逝ってしまったのだった。

今の僕にとって、これらの絵は遠くから投げられ、大きな大きな軌跡を描いて届く球のようだ。かつてはわからさなに満ちていた絵が今になってはじめて、わかったとは言えないまでも何かとても近しく、「そうかそうなんだ、きっと、これが弁造さんの絵なんだ」という雪解けの土を握ったり、大きな木の樹肌に触れたときのような妙な安心感をもたらすのだ。

この安心感は僕だけのものだろうか。もしかして、多く人が弁造さんの完成しない絵から何かを感じ取れないだろうか。この思いは知らぬ間に膨らんできて、弁造さんのこの絵をみんなで見たいと切実に近い思いで感じるようになっている。

大正時代の終わり、北海道開拓のなかで生まれ、農業に従事しながら絵を学び、やがては自給自足生活を営みながら、一度は諦めた絵描きの夢を再燃させて、最晩年になってたった1枚の絵を完成させて逝ってしまった弁造さん。この「生きること」が残した絵はどういうものだったのだろう、もし、それを多くの人たちと一緒に思いを巡らせる機会を生み出すことができればどれほど幸福なことだろうと感じる。そしてもし、それが実現したら、写真を通じて人間に近づくことができないかと考えた25歳の僕に向かって、ひとつの答えに近いものを届けられるのではないかという思いもある。

弁造さん、そして弁造さんが残したエスキースの旅はまだ終わっていないと願っている。

 

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