『庭とエスキース』(みすず書房)を制作中です。

「晩秋の庭で弁造さんを待つ」2010

2019年となった。私家版写真集「弁造 Benzo」を上梓したのがちょうど一年前のことだった。

2016年の12月から暗室でプリントをはじめ、2017年は編集制作に費やし発行にこぎつけたのが2018年1月のこと。また、この発行にあわせるかたちで1月と2月に銀座と大阪のニコンサロンで、弁造さんの庭と絵をテーマにした「庭とエスキース」展を開催した。

昨年の時点では、この写真集と写真展で約20年かけて撮影を続けてきた「弁造さんの生きること」は表現できるのではないか。大切にしてきたテーマが終わってしまうことの寂しさを覚えながらもそう考えていた。実際、写真集制作から写真展の準備へと至る過程は実に濃密で、弁造さんの生きることに向き合う最後の時間としてはある種のクライマックス的な思いもあった。

しかし、出会いや出来事というのは全くもって不思議なものだ。これで一区切りがつくはずが、蓋を開けてみると昨年は写真集を制作していた一昨年以上に”弁造さんの生きること”を考え続ける一年となった。

出会いは、1月の銀座で行われた写真展でのこと。僕は二人の編集者から名刺をいただいた。写真家の鬼海弘雄さんからの紹介で足を運んでくれたのだという。尊敬してやまない鬼海さんのお名前が出た時点で背筋が伸びる思いだったが差し出された名刺を見てさらに緊張した。白い小さな紙の上には少し古風でありながらも独特な書体で「みすず書房」と書かれていたからだった。

本の好きな人間であれば、少なからずこの小さな出版社には思い入れがあるのではないだろうか。僕もその一人でみすず書房が出す本に多くの影響を受けてきた。僕にとってみすず書房が作る本は難解な内容が多い。でも、繊細でいて凛した気高さのなかに深い知を湛えたをみすずの本は僕のなかでは特別だった。人間が”本”に込める思いの深さとページを繰ることの喜びを教えてくれる、みすずの本は僕にとってそんな存在だった。そんな出版社の編集者が僕の展示のために足を運んでくれるというだけで驚きだったが、話は思いもよらぬ方向となった。

展示終了後、東京から岩手へと帰る途中、友人と会うために仙台に立ち寄った僕は一通のメールを受け取った。送り主は、展示最終日にもう一度足を運んでくれたみすず書房の女性の編集者からのもので「弁造さんのこと、文章で綴ってみませんか。本を作ってみたいと強く思っています」といったことが簡潔に書かれていた。

振り返ってみると僕の2018年はこのひとことで決まってしまった。この一年、それなりにいろんな出来事があったが言葉で弁造さんのことを考えることが中心にあった。

写真を撮る理由は、写真でしか近づけないことがあると感じているからだ。その写真でしかできないことに僕はいつも揺さぶられ、気づかされる。そこに離れ難い魅力を感じ続けてきた。しかし、その一方で言葉にしかできないことがあるとも感じていた。それが何であるか、弁造さんの”生きること”を書くことで知ることはできないだろうか。もし、そこにたどり着くことができれば、弁造さんの”生きること”にもっと近づくことができるのではないか。そんな思いで僕は書き続けた。20年という時間のなかで得た弁造さんとの記憶のなかを行ったり来たりして、言葉をひとつひとつ選んで書き進めていった。長い文章を書き連ねていくことは初めての経験で難しいことでもあったが、弁造さんの”生きること”がこれほど自分のなかに詰まっていたのかと自分自身に驚いたりもした。それは、他者の存在が個に与える影響の深さに改めて気づいた瞬間でもあったと思う。

そして、夏の終わり頃だったろうか。書き進めるなかで編集者の方からタイトルを提案された。それは、今年1月の展示タイトルでもあった「庭とエスキース」だった。

庭を作り、絵を描く。しかもその絵はいつも完成しないエスキース(下絵)だった。弁造さんという人生は確かにこのふたつに収斂されていくように思えた。「庭とエスキース」と何度か口ずさんでみた。まだこの世に存在しない本の姿がぼんやりと見えてきた瞬間だった。

こうして2019年の元旦を迎えた今、『庭とエスキース』は、具体的な形へと近づきつつある。今日からこの場所では今春の刊行に向けての制作過程と、弁造さんのことを書き進めるなかでの気づきを綴っていければと思う。

『庭とエスキース』(みすず書房)を制作中です。” への2件のフィードバック

    1. 熊谷さん、ありがとうございます。完成までしばらくお待ちいただけますと幸いです。

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