いつかわかること#写真集制作

弁造さんが90歳を迎える頃から始まった時間があった。

それは、僕の車に乗って、弁造さんの思い出の場所を訪ねるというものだった。

82歳で軽トラを手放し、運転免許を返納した弁造さんの移動手段は、路線バスだった。しかし、北海道の田舎町の路線バスというのは想像通りので不便さで、街に買い物に行くので精一杯だった。

そこで僕が弁造さんのところに行くと、「たまにはどこかに出かけるのもいいな」と言う弁造さんを乗せて、半日程度の小さな旅を繰り返すことになった。旅と言っても、見物や食べ歩きなどは一度もしたことがなく、冒頭で書いたように弁造さんの思い出の場所に行くというものだった。

弁造さんが生まれた集落、ヤツメウナギを獲った石狩川、仲間と海水浴に出かけた浜益の海、庭づくりで手伝った庭園など、時代も内容も様々な場所に出かけた。僕はただ弁造さんに言われるがままに運転し、ハンドルを握りながら、これから向かう場所にまつわる記憶に耳を傾けた。そして目的地に着くと、何をするということでもなく、ぼんやりと佇んだり、道路脇の縁石に腰掛けたりして時間を潰した。そんなとき、いつも不思議だなと思っていたのは、弁造さんがそれほど嬉しそうな表情をしていないことだった。

「懐かしいなあ。ここでこんなことあったなあ」と感慨深げにつぶやくことは多かったが、表情はどこか寂しげだったり、物思いに耽けるような感じが多かった。そこであるとき、僕は弁造さんに「思い出の場所って、やっぱりいいものですか?」と尋ねた。

その問いに対し、弁造さんが言ったことは「もちろん、思い出の場所ってのはいいもんじゃ。じゃが、思い出を一緒に過ごした人のほとんどはおらんくなってしまった。一緒に思い出を作った人はおらんくなって、残ったわしがみんなの思い出を引き受けるのは楽しいだけではあるまい。あんたも長生きすればわかるようになる」というものだった。

この話を聞いてから今日までの間で、僕は弁造さんともう一人、そして一匹、本当に大切だと思える存在に別れを告げてきた。弁造さんが話してくれたことはまだ実感としてないけれど、大切な存在が残してくれた記憶が胸の中に根を張っていくような感覚を覚えようになった。弁造さんの言葉を思い出すたび、この根の一本一本がどう成長していくのだろうかと考えたりする。

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