肖像画家#写真集制作

物心がつく頃から絵を描くことに興味を持った弁造さんは、いつしか画家を目指すようになった。しかし、まだまだ開拓時代が続く大正の終わりから昭和のはじめの北海道の片田舎で”画家”という仕事は現実的ではなかった。

当時の弁造さんの暮らしていた環境では、いわゆる絵画作品を鑑賞したり、描いたりすることなど、どこまでも遠い世界のことでしかなかっただろう。でも、唯一、絵を描いて生きていく方法もあった。それが肖像画家と呼ばれる職業だった。当時、人が亡くなると肖像画家が遺影としての絵を描いた。生前に撮った写真を引き伸ばして遺影とすることはとても高価で庶民には一般的ではなかった。そもそも当時の開拓時代の北海道では、自分自身を写した一枚の写真さえ持っている人は少なかった。そこで、人々は画家に故人の肖像を描いてもらい遺影として用いた。

そこで、絵を描いて生きていたいという思いを膨らませていた当時の弁造さんは、少しの蓄えを作ると、肖像画を描く方法を学ぶため、肖像画専門の通信講座を受けることにした。

弁造さんの死後、肖像画家を目指していた頃の習作が数枚出てきた。いずれも写真のように精緻に描かれており、後年、洋画を学んでからの作風とは大きく異なるものだった。

弁造さんにしてみれば、「こんなもの本当の絵じゃない」と笑い飛ばすだろうが、弁造さんの絵のはじまりを伝える一枚として、僕の目には不思議な力を持っているように見える。

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