2011年と2012年の冬は大雪だった。根雪は2m近くになり、弁造さんが大切していたメープルも幹の部分が隠れ、脇にあった農小屋はほぼ雪の中に埋まってしまった。弁造さんといえば、毎日、雪はねの日々だった。雪べらと年代物の雪かき機械を駆使して、降り積もった雪を処理していた。
今思い出して見ると、いくら雪が降ろうとも弁造さんは雪かきの苦労こそ口にはしたが、それもどこかで楽しんでいる風があった。
夜明け前から雪かきをはじめて、ようやくひと段落するのが7時頃。数時間にもわたる雪かきを終えた弁造さんがよく言っていたのが「北海道で雪が降らんでどうする?そんなのおかしな話だろう」というセリフだった。
でも、そんな弁造さんも最晩年の2012年には老いによる衰えから雪かきもままならなくなった。お手伝いにと僕が駆けつけ、屋根の雪下ろしをすると、弁造さんは「情けない。雪かきももうできんようになった」と釈然としないようで屋根の下を行ったり来たりしていた。
生命は年を重ね、静かに衰えていく。そんなことを自分の身にも重ね合わせられるようになったのはいつのことだろう。よく思い出せないけれど、今では隣人のように近しく思える感覚のひとつだ。そして、それもまた僕にとっては「生きること」の質感のひとつでもある。