僕が出会ったとき、弁造さんの生活は、自給自足生活を実践するための庭づくりと絵を描くことが中心だった。とくに庭づくりは北海道の短い緑の季節にやるべきことがたくさんあり、夏場はなかなか絵を描く時間をとることが難しかった。写生を行わず、イメージだけで描く弁造さんの絵のスタイルを考えると、自分の中から生み出さなくてはならない絵よりも次から次にやるべきことが目の前に現れる庭づくりの方が手をつけやすかったということもあると思う。
それでも弁造さんが亡くなる数年前に「もう終わりにしよう」と言ったのは庭の方だった。自給自足生活のモデルができた。「最期を迎えるまでの時間は絵を描きたい」と絵を中心にした生活にすることを決心した。
しかし、その決心は簡単に形にすることはできなかった。問題は、老いが深まる身体だった。指先が思うように動かず、イメージ通りの線を描けないことに弁造さんは苦しんでいた。
「これが人生っていうもんじゃな。簡単に思った通りにはいかん」と弁造さんは笑ったが、弁造さんの残された時間を思うとなかなか厳しい現実だなと感じた。
老いの問題だけに最期まで弁造さんは納得のいく線が描けないまま、絵を描いていた。今の僕にとっては、震える指で描いたその線の一本一本に弁造さんの吐息にも似た生命感を覚える。