弁造さんの庭にメープルの巨木が立つ。広い庭のランドマーク的な存在だ。
このメープルは弁造さんが自給自足の農園を作ろうと志した50年前に植えたものだ。戦争を経験した弁造さんにとって、甘いものはとても贅沢で大切なものだった。だからこそ、自給自足の暮らしにも甘いもの食べれるようにと考えた。そこで思いついたのがメープルだったが、当時、メープルを入手するのは困難で、ずいぶん苦労して雪印種苗の研究所からメープルの種子をわけてもらったと言っていた。
苦労の末に手に入れたメープルは、弁造さんにとってひときわ思い入れの強い木となり、終生大切にしていた。弁造さんが生きている間、このメープルは一度だけ実を結んだ。その種子をひとつひとつ拾い集めた弁造さんは大切に植えて30本ほどの苗木を作った。そのうちの3本は僕が暮らす雫石の家の庭にあり、今では2階建の家の高さを越すほどに成長している。
今年7月、弁造さんの庭を訪ねた際、メープルの青々と茂った葉が強い風に揺れていた。弁造さんがいつも顔を高くあげ、梢の頂きを見つめていたことを思い出した。