写真と言葉#写真集制作

膨大にプリントしていて、なぜ、こうして他者を写真で撮るのだろうと幾度か思った。

なぜ、言葉ではなく写真で弁造さんの生きることを知ろう、考えようと思ったのか。

写真家を名乗りながら僕にとって写真よりも言葉の方が身近だし、便利で扱いやすい道具だと思う。言葉は思考には欠かせないものだし、記憶や想像を扱う際には本当に自由だと思う。その点、写真はとても扱いづらい。意識の外を克明に写しとるという写真ならではの特性は理解しているが、そもそもカメラの存在が不可欠だし、止まることなく流れ続ける「今」に対し、なんとも頼りないと感じる。もちろん、時の一点を止めるという強靭さにおいて写真が敵うものはないと思うけれど。

言葉もときには思考遊びとなって、現実を歪めてしまうことも経験上身に沁みているが、では、写真が現実そのままかというと全くもってそういうことでもない。

では、僕自身にとってなぜ写真なのかと突き詰めていくと、言葉の先にあるもの、ということになる。

弁造さんと過ごした時間の細部を伝えるのであれば言葉は不可欠だが、一方で僕の言葉では追いつかない細部もまたあることに気づく。言葉をすり抜け、言葉で塗り潰されることを抗い、言葉の先に言ってしまう現実。そんなものを前にしたとき、僕は自分の言葉の無力さを思い知る。と、同時でそれを写真はやすやすと捉えることができることに驚く。

ある日、弁造さんはふとした瞬間に険しい表情で「あんたから見て、わしは幸せだと思うか」と僕に問うた。

答えに窮した僕に見せた弁造さんの表情は何を物語っていたのか今もわからない。

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